能登震災支援―ボランティアの情熱を統制してはいけない​
​協力ではなく共同の力が発揮できる体制をつくれ​
 
 
 

​​募金額は気持ちのこもった106,600円

神戸人権交流協議会(神戸人権交流)は春の税金問題学習・交流会(2月から3月末)を開催しました。 その中で、能登半島地震の被災者への「支援募金のおねがい」をしたところ、相談に来られた方から気持ちのこもった募金が寄せられました。
私たちはこの気持ちを被災者に直接届け、被災者の現状を視察するために、甚大な被害を受けた輪島市に向いました。
◯写真上・募金箱。
◯写真下・交流会風景。​​

 

1、能登半島へ―ものすごく心配していました​​ 

 

 4月5日(金)~6日(土)の両日にわたり、みなさんから寄せられた「支援募金」を輪島市役所に届け激励することと、能登半島地震の被害状況を現地視察するために、4人の代表を乗用車で派遣した。

 一日目は、午前7時長田を出発。北陸道を経て金沢へ、金沢からは風光明媚な『のと里山海道』に入り、輪島市に向かった。

 『のと里山海道』は自動車専用道路で、自動車が走れる『千里浜なぎさドライブウェイ』という有名な砂浜がある。日本海に沈む美しい夕陽、夏の夜には、沖合に浮かぶイカ釣り漁船の漁り火が幻想的に輝くという有名観光地だが、震災の影響があってか、ほとんど観光客らしい人も自動車も無かった。  車は穴水町、七尾市から山岳地帯に入る。

 

 

​​輪島市への動脈は切断されていた

七尾市から輪島市へと向かう道路は、地震の激しい揺れで、広範囲にわたり切断されているために、アスファルトで応急措置をされていました。その部分が盛り上がっているために段差が生じ、車は徐行するしかありませんでした。
能登の復興が遅れている原因のひとつに、この輸送動脈の復旧の遅れがあるそうです。
沿道には道路、橋などの修理のための大きなクレーン車、作業現場が多数みられました。

◯写真上・のと里山海道。
◯写真下・同上。​​

 

 

 

 

 

​​皆さんの気持ちを確かに手渡しました

午後2時に輪島市役所に着きました。市役所の玄関通路の敷石は亀裂が入り陥没したままで、震災時そのままの状態で放置されていました。
ここでも復興の遅れを感じました。市役所内に入ると、震災関連受付窓口が多数あり、そこで静かに相談に乗ってもらっている被災者らしき姿が多数見られました。阪神・淡路大震災の区役所の状況が浮かびました。
輪島市役所では森元憲昭代表幹事が募金を手渡し、「できればこれから苦労される仮設自治会の皆さんの支援に使ってください」とお願いし、阪神大震災の経験をもとに、東日本大震災の仮設自治会の皆さんとの活動が教訓となればと考え、神戸市協が制作した冊子と一緒に手渡しました。
応対していただいたのは会計課の職員・笠谷 暖(のん)さんでした。

◯写真上・輪島市役所玄関。
◯写真下・募金を担当者に渡す。

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2、輪島市・朝市の視察―悲しき焼かれた7人の小人たち

 

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​​​​輪島朝市は燃え尽きていた​

その後、震災直後に大火災が発生し、甚大な被害を受けた有名な輪島朝市の視察を行った。 
かつて神戸人権交流の親睦旅行でも、私的な旅行でも訪れたことのある朝市の人々の親しさに溢れた活気と出店の並ぶ市場の面影はなく、まるで焼夷弾が投下され焦土と化した終末の地のようであった。

◯写真上・震災前の朝市。
◯写真下・燃え尽きた朝市。

 

 

​​​​焼かれて白くなった7人の小人たち

朝市の入口付近では輪島塗の五島屋が横倒しになっていた。朝市通りに入ると庄五郎漆器店、朝市みやげ店、軽自動車は焼けた後、風雨にさらされて赤茶けていた。
瓦礫の上にはところどころに花が手向けられていた。また、熱で変形し、変色した信楽狸、牛、七福神などの飾り人形は平和な生活があったことを偲ばせる。特に憐みを誘ったのは炎に焼かれて白くなった7人の小人たちである。

◯写真上・朝市の土産物屋さん。
◯写真下・燃えて白くなった人形たち。​​​

 

 

 

 

​3、なぜ能登地震では瓦礫の撤去が遅いのか

 

 

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​​​​​舗道や路地をふさぐ瓦礫が放置されていた

朝市跡地は震災から三ヶ月もたっているのに、解体・除却されることなくそのままの状態。
道路沿いの家屋はぺしゃんこにつぶれたままで、その残骸は舗道や道路にはみ出している。たまに通過する自動車は瓦礫に触れないように徐行していた。
元の街に復興するためには早く瓦礫の撤去をしなければならないのだが、どこにもボランティアや工事関係者の姿はなかった。
29年前の阪神・淡路大震災では瓦礫撤去への動きは速かったが、石川県よ輪島市よなぜ遅い。

◯写真上・舗道にはみ出した瓦礫。
◯写真下・路地を塞ぐ倒壊家屋。​​​​

 

 

 

​4、遅れの原因は知事がボランティアを断ったためか?​

 

 

 

 

 

 長い半島の長い海岸線、その中心部分を背骨のように貫く山地。その間に点在する市町村。今回のような地震が発生すれば、道路は寸断され、インフラ設備も破壊され、住民の生命は脅かされ、救援や支援も思うようにできないことはいうまでもない。 

 しかし、それにしても復興の出発点となる瓦礫撤去が遅い。この原因にはボランティアが少ないためにマンパワーが活用できないことにあるようだ。当初、石川県は道路やインフラが甚大な被害を受けているために、ボランティアが一挙に集中すると、二次災害のおそれがあるとしてボランティアに対して「こないでほしい」と呼びかけていた。その期間が長かったことや、情報不足などもあって、全国のボランティアの情熱が冷めてしまったのではないか。

 ボランティアの生命を守ることは重要だ。しかし、災害復旧と復興にはボランティアの力は不可欠だ。能登地震という条件への対応を含め、もう一度ボランティアの意義や役割を考える必要があるのではないだろうか。 

 スーパーボランティアといわれている尾畠春夫さん(84)は、「国は何をしているんだと毎日イライラしていますよ」「(支援物資を積んだ)車が通れないから入れませんと言うけど、車がダメならリヤカーでも何でもいいじゃないですか。リヤカーがだめなら自転車に荷物を積んで押していくとか、できることはあります。私の好きな言葉で『物は有限、知恵は無限』というのがあるけど、国の人はもっと考えないと」(『NEWSポスト』より)と取材記者に語っている。 

 これがボランティアの精神。これに「こないでほしい」と水を注すのは正しいとは思えない。 ​​

 

 

 

5、「創造的復興プラン」がさらに復興を遅らせるかもしれない ​​

 

 

 

 

 

 能登地震は後期高齢化社会到来後の震災であるために、元の地域での住宅再建に対する意欲は低いようである。阪神・淡路大震災の時は高齢化社会のはじまりであったから、被災者の多くは住宅の自力再建を希望し、瓦礫撤去を早く進めることを行政に強く要求していた。能登地震ではそうした要求は強くないらしい。むしろ、公営住宅の希望が多いらしい。

 石川県では「創造的復興プラン」の策定に向け、有識者会議を立ち上げて被災地の住民から意見を聞くなどして取りまとめをおこなっている。

 その「プラン案」を見ると、

①「他にはない豊富な地域資源の魅力の高付加価値化を図ることで、質を求める新しい時代にふさわしい地域づくりができるはずです」と、元の地域に復興するのではなく、「高付加価値化」するという目標を明確にし、大型再開発を進めようとしている。 

②「また、我が国は今、人口減少と東京一極集中が進んでおり、能登の復興は、近い将来、多くの地方が直面する課題の解となる可能性があります」と、能登半島が過疎化することを指摘し、「半島という地理的特性も踏まえ、長期的な人口減少にも対応しながら、(中略)その輝きを取り戻すための方策をまとめていきます」と、半島に分散する市町村をコンパクト化する意図を露にしている。

 瓦礫撤去の遅れはここにありそうだ。 

 県ではこの「プラン」に基づき、今後も被災地の住民と意見を交わしながら、来月末までに復興プランの策定を目指すとしている。

 

 

 

 

​​能登半島地震復興に思う
 
                        
    池田 清​(元神戸松蔭女子学院大学教授)
1、能登半島地震の復興の遅れはライフラインが寸断されたことだ。ライフラインとは、上下水道、電気、ガス、道路など、生命と生活に不可欠なものである。とりわけ、最大の問題は、被災者のライフラインであるボランティアが、「来ないでほしい」という石川県の方針で、被災者の所に行けなかったことだ。過去の災害で、被災者は、ボランティアに出会うことにより、「人の温かみ、見捨てられていない、孤独ではない」ということを肌身で感じられた。今回では、被災者はより孤立化、孤独感を感じたのではないか。

2、石川県は「創造的復興」を掲げるが、それは半島の過疎地を見捨て棄民し、中心地域に集約化することである。そこでは、復興にとって最も大切な「人間復興」「ふるさと復興」の理念は無視されている。

3、半島の過疎地に志賀原発が立地し、今回の地震できわめて危険な状態の一歩手前までいっていたという。半島北部の海岸線は、約4メートルも隆起した。かつて、この地域は原発の立地計画が策動されていた。もしこの原発が立地していたらどうなっていたか、想像しただけでも恐ろしい。 日本列島の周辺の過疎地には数多くの原発が立地している。そして地震は列島のどこでおきてもおかしくないのである。今回の地震から学ぶべきは、被災者の「人間復興」と「原発の廃止」がいかに重要な課題であるかであろう。​​​

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6、王子動物園のタンタンをわすれないため日中友好・平和の願いをうけ継ごう

 

 

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 王子動物園のパンダのタンタンの死が4月1日に報じられ、神戸市民に衝撃を与えた。その翌日、パンダ館に行くと、遺影の前の献花台にはたくさんの花が飾られ、約10人ほどが別れを惜しんでいた。  若い女性に、「残念でしたね」と声をかけてもハンカチを目にしてただ泣くだけでした。中年の女性にもお話しを聞いた。その女性は、「阪神大震災で落ち込んでいた時に、神戸に来てくれて、タンタンには癒され、励まされた」と語ってくれた。

 タンタンは日中友好・平和親善大使と言っても過言ではない。岸田首相が訪米し、日米会談で中国を仮想敵国としてみなし大軍拡を進めることを約束してきたが、タンタンを愛してきた神戸市民は中国との戦争を誰も望んでいないはずだ。

 軍拡競争ではなく日中友好・平和のためにタンタンの生涯に想いを重ねて、外交によって問題を解決することが必要である。ウクライナ戦争とイスラエル軍のガザ侵攻は続き、大人だけでなく、タンタンのような動物を愛する子どもたちが怪我をし、殺されている。どんなことがあっても戦争はしてはならないことをタンタンの死は教えているのではないか。

 

神戸人権交流協議会事務局長 ​内海 章  ​