歎異抄第5条よーん♡

 

長いよーん♪

 

 

 

さあ、元気にいきましょう!

(↑元気なのはいいことw)

 

 

 

 

今回も歎異抄からいったん離れ

 

六角堂の夢告の「行者宿報の偈(げ)」

(通称「女犯偈にょぼんげ」)

 

について私見を述べていきます

 

 

 

なぜなら、この「女犯偈にょぼんげ」を書き残したとき

 

親鸞は悟った

(フォーカス27以上を体験した)

 

ことが分かるからです

(議論はいたしませんm(__)m)

 

 

 

 

 

ところが、歎異抄の初めにも触れたのですが

 

「女犯偈にょぼんげ」についても

専門家の先生方が「分からない」とサジを投げちゃっている

 

のですw

 

 

 

しつこいですが「女犯偈にょぼんげ」は

 

親鸞が悟った

(フォーカス27以上を体験した)

 

という親鸞の人生のハイライトの場面の1つです

 

 

 

親鸞の研究者にとっては

 

本来ヨダレを流しながら読むところですw

 

 

 

なので、「女犯偈にょぼんげ」について考えることは

 

ひいては「歎異抄は分からないものだ」「分からなくてよいのだ」などと

 

なぜ専門家の先生らーがサジを投げちゃうのか?

 

という疑問に答える一助になるのですね

 

 

 

 

 

では、「女犯偈にょぼんげ」を再掲します~

 

行者宿報設女犯

行者宿報ニシテタトヒ女犯ストモ
我成玉女身被犯

我玉女ノ身トナリテ犯セラレン
一生之間能荘厳

一生ノ間ヨク荘厳シテ
臨終引導生極楽

臨終ニ引導シテ極楽ニ生ゼシメン

 

(親鸞)上人が女性を犯すのであれば

私が美しい女性になってお前に犯されてあげましょう

そして一生の間お前を守り

お前の臨終に際しては引導を渡して極楽へ導きましょう
(梅原猛「梅原猛の仏教の授業 法然・親鸞・一遍」 より)

 

 

 

 

 

次に、親鸞の「偈(げ)」のこれまでの確認です

 

○物質の世界がいかに変化しようとも、非物質の世界は変わらない

○800年前の親鸞が六角堂で体験した非物質の世界と、現代のヘミシンカーさんはじめ、非物質の世界の探索者さんが体験する非物質の世界は「同じもの」(階層の違いはあるけれど)

 

 

○非物質の世界の、いわゆる「成仏にして悟りの波動域フォーカス27(以上)」の「描写」は、現代人でさえ困難をともなう
○ましてや、ことばも概念も極端に少ない鎌倉時代に、親鸞自身が体験した非物質の世界を、教養の少ない民衆に伝えることはほぼ無理な話

 

○フォーカス27を、現代語で「ひとこと」で頑張って言うならば「普遍愛」「無償の愛」「無条件の愛」「広大無辺の愛」
○フォーカス27の世界を民衆に「こまごま」伝えようとしてもムリなので、29歳の親鸞はひとまず「偈(げ)」として、「ひとこと」で分かりやすく伝えようとした


という流れでした

 

 

 

 

 

さて、親鸞の「女犯偈にょぼんげ」について

 

現代の専門家の先生方のご意見はどんなもんでしょうか?

 

数ある研究の中のごく一部ですが、このような感じです

 

 

 

思うに、「行者宿報の偈」は親鸞にとっても、すぐにはよく分からないものであったのではないだろうか。

現在の我々が長い間かかってそれを追い求めようとしているのと同様、親鸞とてもその意味がすぐに飲み込めたという確証はない。

(本願寺派西勝寺・山田雅教さん)

 

親鸞はこのお告げを受けて、ひとまず意外な感じがしたはずである。

彼が祈ったのは後世のことであり、結婚のことではなかった。

それなのにお告げでは結婚の可能性が正面に押し出されていて、極楽往生はその次ぎである。

(筑波大学・今井雅晴さん『親鸞と浄土真宗』)

 

自分をもてあましやりきれない者は、いつか自分自身を見限り見捨ててしまいます。

自分自身を見捨てそうになっていた聖人に対し、太子の言葉は思いもかけない不思議な言葉でした。

(真宗大谷派太子山上宮寺さま)

 

 

 

名誉も権威も知識も十分におありある先生方に「いいがかり」をつける気は毛頭ないのですが

 

ちょっと「逃げ過ぎ」のような気もしますw

 

 

 

歎異抄もそうなのですが、偉い先生が「分からない」と言われますと

 

後輩は困っちゃうのですよw

(しかも論文で)

 

 

 

このシリーズを書くにあたり、歎異抄や女犯偈(にょぼんげ)についての書物や論文にいくつか当たりましたが

 

「筆者は分からない」と書く

「親鸞も分からなかったのではないか」と推測する

 

っていう箇所が散見されます

 

そうやって書くことが、長年流行っているのかもしれませんw

 

 

 

 

 

しかし、「分からない」と言われるのも仕方のない話で

 

世界中のヘミシンカーさんが体験、記録、発表している

 

フォーカス27(以上)の世界

 

を、知識でも全然いいので理解し

 

 

悟り=フォーカス27

 

と定義すると理解がはかどるのですが

 

 

 

フォーカス27とかって言いだすと

 

一般的には「神秘体験(宗教体験)」ととらえられ、親鸞は体験していいけれど、研究者はしてはいけないうえに、学問の世界では「排除」「軽視」「無視」の対象になる

 

のですね

(当の親鸞は神秘体験をしたにもかかわらず、親鸞の研究者はいわゆる神秘体験を「していない」という前提で文章を書いている。これはヘミシンク誕生以前は「非物質の世界が客観的に体系化されていなかった」ためで、仕方のないことでもあります)

 

 

 

 

 

ただ、専門家の先生方のご意見を「参考」にさせていただくと

 

「勘違い」が明らかになり、歎異抄の理解がより深まりますので

 

あえて挙げさせていただきました

 

 

 

 

すでに長いので、続きは次回w
 

女犯偈についての「勘違い」を確認します~