歎異抄の第5条やっとります~

 

 

なんとなーく今回から

 

シリーズの【後半】に入ります

(↑やっとかw)

 

 

 

 

難しい語句もありますが

 

説明などはそのつどするとして

 

順番に読んでいきましょう

 

 

 

ということで、今日はこの部分です

 

 

 

わが力にて励む善にても候わばこそ、念仏を廻向して父母をも助け候わめ

(それが自分の力で励む善なのであれば、念仏をさしむけて父母を助けることもできましょう。しかし、善などできる私ではなかったのです。)

(【ジーナ訳】もし、念仏というものが「私は良いことをしているぅぅぅ!という自力で頑張っちゃう善」であるならば、亡き両親をも救えるという理屈なんだろうが、それはそもそも念仏を勘違いしているぞ。
念仏は「ありがてえなあ」という感謝の心境の発露であり、それは自力でも他力でもなく、ただガイドさんに任せ切る「絶対他力」の心境なんだ。
)

 

 

 

 

 

翻訳は載せた通りですので、ポイントをいくつか

 

重複しちゃってたらごめんなさい~w

 

 

 

①親鸞は「善悪」ではなく「絶対他力」の話をしている

②念仏を「供養」に用いているリーダーへの批判

③親鸞のフシギ体験と、ヘミシンカーさんの非物質体験は同じ

④フシギ体験をすると「善悪はない」「自力は要らない」と気づく

 

あたりです

 

 

 

 

 

今日は①親鸞は「善悪」ではなく「絶対他力」の話をしているです

 

ここは第3条でもふれましたが

 

たくさんの解釈者さんが誤解されているようなので

 

我々読者も迷ってきたところですw

 

 

 

歎異抄をつらぬいている構図はシンプルです

 

 

 

世間=自力=善(人)

親鸞=絶対他力=悪(人)

 

ですですw

 

 

 

ここを「感情抜き」で「淡々と」とらえると迷いません

 

 

 

 

「感情たっぷり」の「濃厚A級味噌ラーメン」ですと

 

親鸞は自らの苦悩や葛藤を吐露され

同席していた筆者唯円も心打たれて涙した…

 

ってなっちゃいますw

(文語体なので、もちろんそういった解釈も可能です)

 

 

 

 

 

フォーカス27(以上)を体験した親鸞は

 

この世に善悪・優劣はない

自分の力でやった!ということは何1つない

 

と「悟り」ましたw

(このスタンスを「自然法爾じねんほうに」とか「絶対他力」などと呼びます)

 

 

 

ですので、親鸞が「わが力にて励む善」と言っているのは

 

世間や、当時の真宗のリーダーへの皮肉

 

でもあるのですw

 

 

 

 

 

ここでいう「皮肉」とは、どういうことでしょうか?

 

っていうのは、過去にも書いた記憶がありますが

 

第5条の文脈で、簡単に振り返れば

 

 

 

【世間】

世間では、念仏を唱えて亡き人を追善供養(葬式や法事)をしている

これが「大多数の常識、価値観、正義感」でもある

ゆえに、これが「善」であり

自力で追善供養や怨霊鎮魂を行う者が「善人」である

 

【親鸞】

親鸞は、フォーカス27で生まれ変わりのシステムを体験し

それ以上のフォーカスで命は綿々と1つに繋がっていると理解し

誰もが全員すでに救われているので供養の意味はなく

また、この世に「善悪はない」と知った(そらごとたわごと)

ゆえに、「供養」「善悪」を語ることは無意味だが

これは「超少数派のスタンス」なので

「世間」からは「親鸞は悪人だ」ととらえられちゃう

 

 

という背景があります

 

 

 

なので、親鸞が自分自身のことを

 

「煩悩具足のわれら」

「他力をたのみたてまつる悪人」

 

と「自称」しているのは

 

 

 

俺なんか煩悩だらけの悪人なんだ…

 

とクヨクヨしているのではなくw

 

 

 

俺のスタンスは「世間」さまから見れば

煩悩だらけのクソ坊主で、大悪人だろうなあw

 

って、「笑って」言っているのですw

 

だから、「皮肉」なわけです

(「(笑い)」「(笑)」「(w)」「(草)」という表記が誕生したのはここ最近であり、それまでの読者は「現場の雰囲気は察する」しかなかった)

 

 

 

 

 

なぜ、ここの「皮肉」のところをクドクド書くかといえば

 

ここを「親鸞の皮肉」と解釈されている方がいないからですw

 

 

 

 

具体的には

 

「善悪はないと親鸞は分かっていて、それでも世の常識に沿ってあえて善悪を語る親鸞の面白さ、おかしみ、ユーモア、諧謔」

 

という私の解釈が

 

これまでの数ある解釈と「決定的に食い違う」からですw

(親鸞と唯円(とその他モブ)(←モブって言うなw)の再会は「涙涙のしんみり対談」なんてものはあったにしても一瞬で終わり、基本的には「ユーモアあふれる笑いの絶えない対談」だった)

 

 

 

 

 

「この世に善悪はない」というのは

 

「非物質の世界(フォーカス27やそれ以上のフォーカス)」

 

を、体験せずとも知識として知っていれば

 

それが「解釈の基本的スタンス」となって歎異抄の理解がはかどるのですが

 

 

 

歎異抄で、親鸞は「善(人)」「悪(人)」と言いまくっているwので

 

これまでの解釈者は「善」「悪」の解釈にこだわってしまっている

 

のですね

(「悟った人=F27の体験者がすごい」のではありません。「この物質の世界は仮の世界であり、私には還るところがあるんだ。だから、のんびりのんきに過ごしていいんだなあ」と分かっちゃうことが親鸞の本意であり、素晴らしいことなのです)

 

 

 

 

親鸞はすでに

 

世間さまでいう「善悪」

 

などにこだわっておらず

 

 

 

「善悪」は個人の主観であり

んなもんどーでもいいわw

 

ってなスタンスなのですw

 

 

 

親鸞がイイタイコトは

 

「自力」は無意味で「他力」だよ

もっといえば「絶対他力」のスタンスでいいんだよ

 

ということです

 

 

 

「絶対他力」とは、「念仏」でいえば

 

念仏でさえ「自力」で唱えるのではなく

 

思わず念仏を言いたくなった

(念仏申さんとおもいたつこころのおきるとき)

 

ってな感じです

 

 

 

「出来事」でいえば

 

出来事は「自力」で努力はするけど

 

結局何もかもガイドさんのはからいだ(った)なあ

 

ってな感じですw

 

 

 

なんもかんもガイドさん(自分と同一、同質の非物質の存在)との共同作業なので

 

当然、出来事は「ただ在る」だけで「善悪はない」わけです

 

 

 

 

 

「善悪を言う」のは、周囲の「世間」さまであって

 

「善悪を言わない」はずの親鸞が「善悪を言う」と、それは「皮肉」になる

 

のですw

 

 

 

「絶対他力」のスタンスの親鸞の

 

「善」「悪」ということば

 

を「皮肉」としてとらえず

 

 

親鸞は「本気で善悪を語っているのだ!」と頑張って考えちゃうw

 

ので迷子になるのですね

 

 

 

(これでも分かりにくいかも南蛮なので、さらに捕捉しますと…

 

どんな堅苦しい書物にも共通していることがあります。

それは、どれほど堅苦しい書物であっても「ユーモア、あるいは皮肉が、どこかに入っている」という点です。

面白いもので、論文や小説をのぞいては、これはほぼ100%と言ってもいいです。
 

上で述べたとおり、「善悪」と「絶対他力」は意味としても、生きるスタンスとしても「矛盾」しており、そもそも相容れない概念です。
それを「同列」に述べること自体、本来は親鸞のような知識人としてはあり得ません。

「同列」に述べるとムリが生じるからです。


ただし、自分の「イイタイコト」を述べたい場合に、「ユーモアや皮肉」として「イイタイコトの反対の概念」を持ち出すことがあり、これは一般的に広く使われている手法です。

 

たとえば、「西洋のザンギリ頭は超少数派だが、平等思想で、開明的で、髪も洗いやすいのでおススメだ」というイイタイコトがあったとする場合、「ちょんまげ」を「イイタイコトの反対の概念」として提示することができます。

そのとき、ザンギリ頭の人が「日本古来のちょんまげをみな結っているが、あれは身分制のなごりであり、古臭く、髪も洗いにくいものだ」と「反対の概念」を提示し、そこで「まあ、俺なんぞ世間さまから見れば、日本人の魂を捨ててしまった悪人って言われちゃうけどさ」と言えば「ユーモアや皮肉」となって周囲のザンギリ頭の賛同者をクスッと笑わせることになるのです。

 

親鸞のイイタイコトは「絶対他力」であり、「善悪」は「イイタイコトの反対の概念」として出しているだけなのですが(そもそも矛盾していますし)、「悪人正機説」というご立派な名前がついたおかげもあり、ここが「ユーモア」「皮肉」とはとても思えなくなってしまっているのかもしれません。

 

「善悪」と「絶対他力」を同列に取り上げ解釈しようとすると、この2つの概念は矛盾していますので「歎異抄は分からねえ」ってなるのです。

ポイントはじつにシンプルでして、「善悪はマクラ話」「絶対他力がイイタイコト」なだけです。

 

歎異抄は、唯円が「同時代に生きる浄土真宗の信者さん」に向けて「ひとえに同心行者の不審を散ぜんがため(ひとえに親鸞の教えを学び求める同志の不審をはらしたいから)」書かれました。

そんな目的の本が分かりにくいはずがありません。

「面授の弟子」と言いますが、親鸞と実際に出会い、直接教えを聞いた人が歎異抄のこの部分を読んだ場合、「ああ、親鸞先生はたしかにこんなこと言って、俺たちを笑わせてたよなあ!」と、ムリなく読めたわけです)

 

 

 

 

 

参照:

 

 

 

あ~

 

長っ!

(ごべーん!)