長々と述べてきましたが

 

ようやく『歎異抄』に入りたいと思いますw

(↑マジで長すぎなんだよw)

 

 

 

で、「第9条」をやりたいのですが

 

その前に「第2条」をやりたいなっとw

(↑お、おう・・・)

 

 

 

いえいえ、「第9条」は「第2条」を受けているので

 

「第2条」を知っておくとより理解が深まるのです

(↑短くな~w)

 

 

 

はい、私もいい加減飽きてきたので

 

ここはサラッと通り過ぎたいなとw

 

 

 

今日は「第2条」を全文あげまして

 

説明は明日にしたいと思います

 

 

 

それではどうぞ!

 

 

 

【原文】

 

おのおの十余ヶ国の境を越えて、身命を顧みずして訪ね来らしめた まう御志、ひとえに往生極楽の道を問い聞かんがためなり。

 

しかるに、念仏よりほかに往生の道をも存知し、 また法文等をも知りたるらんと、心にくく思し召しておわしましてはんべらば、大きなる誤りなり。


もししからば、南都北嶺にもゆゆしき学匠たち多く座せられて候なれば、かの人々にもあいたてまつりて、往生の要よくよく聞かる べきなり。

 

親鸞におきては、「ただ念仏して弥陀に助けられまいらすべし」と、 よき人の仰せを被りて信ずるほかに、別の子細なきなり。    
念仏は、まことに浄土に生まるるたねにてやはんべるらん、また 地獄に堕つる業にてやはんべるらん、総じてもって存知せざるなり。


たとい法然聖人にすかされまいらせて、念仏して地獄に堕ちたりとも、 さらに後悔すべからず候。


そのゆえは、自余の行を励みて仏になるべかりける身が、念仏を申して地獄にも堕ちて候わばこそ、「すかされたてまつりて」という後悔も候わめ。


いずれの行も及び難き身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし。


弥陀の本願まことにおわしまさば、釈尊の説教、虚言なるべからず。

仏説まことにおわしまさば、善導の御釈、虚言したまうべからず。

善導の御釈まことならば、法然の仰せ、そらごとならんや。

法然の仰せまことならば、親鸞が申す旨、またもってむなしかるべからず候か。    
 

詮ずるところ、愚身が信心におきてはかくのごとし。

このうえは、念仏をとりて信じたてまつらんとも、またすてんとも、 面々の御計らいなり、と云々。

 

 

 

【五木寛之さん訳】

 

あるとき、親鸞さまは、はるばる関東から訪ねてこられた念仏者たちをまえに、こう言われた。

みなさんがたは、十数力国の国境をこえて、いのちがけでこの親鸞のところへやってこられた。

 

そのひたむきなお気持ちには、わたしも感動せずにはいられません。

しかし、さきほどからうかがっておりますと、あなたがたは、なにか念仏以外にも極楽往生の道があるのではと考え、それをわたしにおたずねになりたい一心から、ここへおいでになったように見うけられます

率直に申しあげるが、それは大きなまちがいです。

 

わたしたちが救われて極楽浄土へ導かれる道は、ただ念仏する以外にはありえない。

 

そのことのほかに、もっと大事な極意があるかもしれないとか、特別な秘法についての知識をわたしがもっているのではないか、などと勘ぐっておられるとしたら、それはまことに情けないことです。

そういうお気持ちなら、奈良や比叡山などに、有名なすぐれた学僧たちがたくさんいらっしゃいます。

 

そのかたがたにお会いになって、極楽往生のさまざまな奥義をおたずねになってはいかがですか。

わたし親鸞は、ただ、念仏をして、阿弥陀仏におまかせせよという、法然上人のおことばをそのまま愚直に信じているだけのこと。

念仏がほんとうに浄土に生まれる道なのか、それとも地獄へおちる行いなのか、わたしは知らない。

 

そのようなことは、わたしにとってはどうでもよいのです。

 

たとえ法然上人にだまされて、念仏をとなえつつ地獄におちたとしても、わたしは断じて後悔などしません。

そう思うのは、このわたしが念仏以外のどんな修行によっても救われない自分であることを、つね日ごろ身にしみて感じているからです。

ほかに浄土に救われる手段があり、それにはげめば往生できる可能性がもしあるというのなら、念仏にだまされて地獄におちたという後悔もあるでしょう。愚かにも念仏にたよったという口惜しさものこるでしよう。

しかし、煩悩にみちたこのわたしにとって、念仏以外のほかの行は、とてもおよばぬ道です。

 

ですから地獄は、わたしのさだめと覚悟してきました。

阿弥陀仏の約束を真実と信じるならば、釈尊の教えを信じ、また善導の説を信じ、そして法然上人のおことばを信じるのは自然のことではありませんか。

 

その法然上人の教えをひとすじに守って生きているこの親鸞なのですから、わたしの申すこともその通り信じていただけるのではないか、と思うのです。

要するに、わたしの念仏とは、そういうひとすじの信心です。ただ念仏して浄土に行く。それだけのことです。

ここまで正直にお話ししたうえで、みなさんがたが念仏の道を信じて生きようとなさるか、またはそれをお捨てになるか。

 

その決断はどうぞ、あなたがたそれぞれのお心のままになさってください。

(引用元)

 

 

 

 

ここまでの【まとめ】

○『歎異抄』は理解できなくてよい、という空気がある
○『歎異抄』には「等身大の親鸞」の姿が描写され、後世の人々にはそれが驚きであった
○『歎異抄』の筆者唯円は「読者に分かってもらえる」と確信して筆をとったので、後に発禁処分になったり、『歎異抄』は理解できなくてもいいという雰囲気は、筆者唯円にとってかなり想定外であるはず

○「覚者の姿」の一般的なイメージは「聖人君子」である
○神格化された「覚者のイメージ」は後年つくられた思い込みであり、覚者たちは「普通の人間」であった
○「人気のある人」の条件は現代と鎌倉時代とでは大きく異なるが、「面白い人」という点は共通している
○「覚者」のイメージは「陰キャ」よりも「陽キャ」のほうが、人前で説法する外面的なイメージとしては正確である。すなわちユーモアがあり、エロスを理解し、カラッとしている

○『歎異抄』が成立した鎌倉時代の平均寿命は24歳。なぜ現代と比べてかなり低いのかといえば、新生児医療が未発達で赤ちゃんが亡くなりやすい環境だったから

○「女性はたくさん子どもを産む」ことを求められていた時代が長く続いた

○鎌倉時代の庶民は「ワンシーズン経つと、知り合いが死んでいるのが当たり前」の時代に生きていた

○鎌倉時代の庶民の人生観は「楽しいことしたい!」という「享楽的なスタンス」「享楽を求めるスタンス」であり

人々は笑い合い、祭りや収穫を心待ちにし、生きるエネルギーに満ち溢れていた

○子をしつけ、叩く慣習などそもそも日本に無く、少なくとも戦後に生まれた思想

○子をしつけ、叩く慣習は「朱子学」「軍国主義的雰囲気」「戦後の左翼教育の台頭」と関りがあり、それは戦後の日本人の長寿化によるものである

○第2次大戦以前の子どもは「親からのコントロール」が現在と比べるとかなり少なく、それは親(大人)自身が享楽的だったからである

○鎌倉時代は「若者ばかり」で賑やかで活気があった。そして、若者は流行が好きで、ブームをつくり、新しいものに目がないという一面がある

○「あの世に地獄極楽がある」と信じられていた時代、「念仏や題目を唱えるだけで極楽浄土へ行ける」という情報は、享楽的なスタンスの民衆に広く受け入れられた