昨日とおとといのまとめ

 

○『歎異抄』が成立した鎌倉時代の平均寿命は24歳。なぜ現代と比べてかなり低いのかといえば、新生児医療が未発達で赤ちゃんが亡くなりやすい環境だったから

 

○「女性はたくさん子どもを産む」ことを求められていた時代が長く続いた

 

ですが



平均寿命が「24歳」という鎌倉時代では

 

なにも赤ちゃんだけが亡くなりやすい

 

わけではありませんでした

 

 

 

育ってからも油断も隙もなく

 

ちょっとした病気であっという間に亡くなる

1発目の病気であっけなく亡くなる

 

という環境でした



これは小児医療をはじめとする

 

医療全体が未発達

 

という理由に尽きます

 

 

 



親鸞の没年は1262年ですが

 

杉田玄白らが『解体新書』を著したのが1774年なので

 

医療が解剖に到達するまで

 

まだ500年必要だったわけです

 

 

 

ちなみに鎌倉新仏教の一人、栄西は

 

『喫茶養生記』で「お茶は薬だよ」

 

と述べているくらいですので

 

 

 

鎌倉期と現代人との

 

「病気」に対するアプローチは相当かけ離れている

 

ということを確認してください

 

 

 

 

 

 

「七五三」という行事は、鎌倉時代にはまだありませんでしたが

 

このような行事が生まれたくらい、昔は

 

子どもが「無事に育つ」ことが困難だった

 

わけです

 

 

 

ちなみに「七五三」は1681年に

 

「犬公方」綱吉の長男、徳川徳松の健康を祈って始まった

 

そうですが

 

 

 

「七五三」について神社本庁でもこう述べています

 

今とは違い、当時は医療が進んでいなかったために乳幼児の死亡率も高く、子供を七五三の年齢まで無事に育てることは並大抵なことではなかったのです。

「七つまでは神の内」と言うように、それまでの子供の成長は神さまにお任せするしかありませんでした。

(神社本庁)

 

 

 

 

「七つまでは神の内」ではあるものの

 

平均寿命が「24歳」の時代ですから

 

7歳を過ぎてもまったく安心できません

 

 

 

病気はもちろん、飢饉なども普通にありましたので

 

何日も食べられない

満足に食べられない

 

というのもしばしばありました

 

 

 

 

 

農業が発達し、おなじみ

 

「醤油」

 

が普及したのは次の室町時代のことで

 

鎌倉時代の食生活は非常に質素でした

 

 

 

 

 

この写真は

 

「鎌倉武士祝い膳」

 

を再現したものです

 

(引用元)

 

 

 

玄米に魚と野菜中心で、塩と味噌はわきに添えるスタイルでした

 

支配階級の「武士」の「祝い膳」でこれですから

 

「庶民」の「日常の食事」は推して知るべしでしょう

 

 

 

 

 

また、鎌倉新仏教の1つ、曹洞宗の永平寺の食事です

 

 

「小食(しょうじき)」という朝食ですが

 

お粥、梅干し、野菜、ごま塩のみです

 

修行僧という身なので仕方ありませんが

 

明らかにカロリー不足、栄養不足です

(スピ的にはこれでOKですがw)

 

 

 

 

 

 

いろえろ言ってきましたが

 

この時代を端的にいえば

 

 

ワンシーズン経つと、知り合いが死んでいるのが当たり前

 

という時代なのです

 

 

 

春になって「あれ?あいつどうしたべ?」と聞けば

 

「この冬に死んだべえ」

 

という会話が「当たり前」だったわけです

 

 

 

 

鎌倉時代の庶民は

 

現代とはまったく違う環境で暮らしていた

 

ということが分かると思います

 

 

 

 

 

「環境」は分かりました

 

では、当時の庶民の「人生観」

 

一体どういうものだったのでしょう?

 

 

 

 

今日は

 

○鎌倉時代の庶民は「ワンシーズン経つと、知り合いが死んでいるのが当たり前」の時代に生きていた

 

ということを確認しました

 

 

 


ここまでの【まとめ】←いよいよ長いなーw

○『歎異抄』は理解できなくてよい、という空気がある
○『歎異抄』には「等身大の親鸞」の姿が描写され、後世の人々にはそれが驚きであった
○『歎異抄』の筆者唯円は「読者に分かってもらえる」と確信して筆をとったので、後に発禁処分になったり、『歎異抄』は理解できなくてもいいという雰囲気は、筆者唯円にとってかなり想定外であるはず

○「覚者の姿」の一般的なイメージは「聖人君子」である
○神格化された「覚者のイメージ」は後年つくられた思い込みであり、覚者たちは「普通の人間」であった
○「人気のある人」の条件は現代と鎌倉時代とでは大きく異なるが、「面白い人」という点は共通している
○「覚者」のイメージは「陰キャ」よりも「陽キャ」のほうが、人前で説法する外面的なイメージとしては正確である。すなわちユーモアがあり、エロスを理解し、カラッとしている

○『歎異抄』が成立した鎌倉時代の平均寿命は24歳。なぜ現代と比べてかなり低いのかといえば、新生児医療が未発達で赤ちゃんが亡くなりやすい環境だったから

○「女性はたくさん子どもを産む」ことを求められていた時代が長く続いた