『歎異抄』の解説書は

つかず離れず

距離をとって読もう

 

ですが

 

 

 

なぜかといえば

 

『歎異抄』の解説書の著者の先生方が

分かっておられないのに書いている

 

ので

(ご本人方が認めておられる)

 

 

 

真剣!深刻!マジメ!に読むと迷子になる

 

からです

 

 

 

 

よいのだジーナ…

『歎異抄』が分かるなんてことはないのさ…

 

っていう「空気」が蔓延する『歎異抄』ですが

 

 

 

そんなわけがない!

 

のですw

 

 

 

 

 

 

『歎異抄』という本は

 

秘本、聖本扱い

 

されているのですが

 

 

 

それは

 

室町時代の蓮如上人が「発禁処分」

 

にしたためです

(以下、シリーズを通して敬称略)

 

 

 

蓮如は『歎異抄』を写筆した後

 

最後にこう記しました

 

 

右この聖教は、当流大事の聖教たるなり。無宿善の機に於ては左右無く之を許すべからざるものなり。釈蓮如
 
(この『歎異抄』は、浄土真宗の大事な聖教である。仏縁浅き人には、誰彼となく拝読させてはならぬものである。釈蓮如)

 

 

 

こんなこと書いちゃったら

 

秘本、聖本扱い

 

されて

 

 

 

読者に誤解を与えかねない

 

カミソリ聖教

 

と呼ばれてしまうのも仕方のないところですw

(皮肉にも、現代まで誤解されていますが)

 

 

 

 

 

ただ、『歎異抄』の原本は残っておらず

 

残存するもっとも古い『歎異抄』が、この

 

 

 

蓮如の写本版

 

なので、その点

 

 

 

蓮如、グッジョブ!

 

なのですがねw

 

 

 

 

 

その後、明治時代に「発禁が解除」され

 

以来、宗派を超えて多くの僧侶、作家、研究者の方々が

 

「驚きをもって」読んできました

 

 

 

その際、しばしば言われることが

 

等身大の親鸞の姿

 

です

 

 

 

唯円との赤裸々で真剣きわまる問答が記録された「歎異抄」からは、等身大の親鸞の姿が鮮烈に浮かびあがってきます。

宗教者としての覚悟、罪深き我が身への冷徹なまなざし、絶望にあえぐ人々への限りなき慈愛、信仰への確信と懐疑の間でゆらぐ苦悩……。

「100分de名著-NHKオンライン」より抜粋

 

とかねw

 

 

 

 

 

「等身大の親鸞」

 

という表現は

 

裏を返せば、それだけ

 

 

神格化されている

 

ということなのです

(この点についてはとても重要でして、後日また改めて述べます)

 

 

 

 

 

 

さて、『歎異抄』は発禁処分より150年ほど前の鎌倉時代に

 

唯円(ゆいえん)という方が書いたとされています

 

 

 

で、あなたにぜひ問いたいのは

 

書いた本が「発禁処分」になると分かっていて

 

それでもあなたは本を書きますか?

 

ってことですw

 

 

 

まさか自分の書いた本が、後に「発禁処分」になるなんて

 

唯円もフォーカス27…いや草葉の陰からさぞ驚いたことでしょう

 

 

 

筆者唯円の驚きは、どういった点でしょう?

 

それは

 

 

 

苦悩にもだえる「等身大の親鸞の姿」を書いたために

『歎異抄』は読む者を迷わせる「カミソリ聖教」である

そのため「仏縁浅き人には、誰彼となく拝読させてはならぬ」

 

ゆえに、よいのだジーナ…

『歎異抄』が分かるなんてことはないのさ…

でかまわないのだよ

 

 

って扱いになっていることですw

 

 

 

 

今日は

 

○『歎異抄』には「等身大の親鸞」の姿が描写され、後世の人々にはそれが驚きであった

 

という点について確認しました

 

 

 

 

ここまでの【まとめ】

 

○『歎異抄』は理解できなくてよい、という空気がある