おは褒められて伸びる子!

 

 

 

私は親鸞は好きですが

 

別に浄土真宗の信徒ではありません。

 

 

というお断りをいたしまして…

 

 

『歎異抄』の第9条です。

 

原文は昨日のブログをご覧ください。

 

 

まずは、私の乱暴な意訳をどうぞ。

 

 

【ジーナ意訳】

 

①唯円「師匠!躍り上がるような喜びが湧いてこないっす」

②親鸞「唯円、お前も?俺もだよ」

③「それは煩悩のせいだけど、仏さまはもちお見通しで、そんな煩悩だらけの俺をも救おうと言われてる」

④「煩悩があるからこそ、往生できるってものなのさ」

 

 

 

昨日、これまで読み手の先生方が

 

「ミスリードされておられているのではにゃいか」

 

と指摘申し上げました。

 

 

 

もう一度言いますと

 

 

「書き手」は「読み手」に理解、ないし同意してほしいから書く!

 

に決まっているわけで

 

これは『般若心経』でも言ってきましたね。

 

 

 

さらにいえば

 

「書き手」にとって

「読み手」によって解釈が変わってしまうのは許せない!

 

っていうのも忘れてはいけません。

 

 

 

しかも『歎異抄』は後述するように

 

「親鸞の教えを正しく元に戻したい!」

 

という筆者・唯円の切なる思念があります。

 

「読み手」によって解釈が変わることは何よりも避けたいわけです。

 

 

 

…にもかかわらず当代きっての研究者の先輩方が

 

 

「分からない!」

 

というのは

 

 

「どう考えてもおかしい」

 

のです。

 

 

 

だって

 

『歎異抄』を書いた唯円はもちろん

 

「読み手」の当時の人々の中にも

 

「分かった人!」

 

はたくさんおられたでしょうから。

(そもそも「分かってほしい」がために書かれたのが目的ですし)

 

 

 

 

どうやらこれには理由がありそうですね?

 

 

 

 

「分からない」のは

 

「親鸞がすごすぎる」わけでも

「唯円がショボい」わけでも

「読み手の勉強不足」なわけでもなく

 

 

『歎異抄』の【大前提】を忘れて読んでいるからです。

 

 

 

 

 

『歎異抄』は親鸞亡き時代に

 

師・親鸞の教えが歪んで

 

「異」なって伝わっていることを

「嘆」いて付けられたタイトルです。

 

(親鸞自身は「俺は弟子を1人も持たねえ」って言ってますが、弟子はそうは言ってられません)

 

 

 

 

そういう趣旨で書かれた本で

 

師・親鸞を貶めるようなことを書きますか?

 

絶対に書かないのですよ。

 

 

 

むしろ

 

「親鸞って方はこれほどすごい方だったんだよう!」

 

って大声で叫びたいがために

 

唯円は『歎異抄』を著したのです。

 

 

 

 

 

 

つまり、言葉は語弊があるかもしれませんが

 

 

「親鸞の最大限の称賛!」

 

『歎異抄』の【大前提】なのです。

 

 

 

唯円が師・親鸞の「人間性」について書いてあっても

 

それは「最大限の称賛」として書いているのです。

 

 

 

たとえそれが

 

「愛憎」や「浅ましい」、「煩悩具足の凡夫」

 

という表現を親鸞がして

 

唯円が『歎異抄』で紹介しても

 

それは「親鸞を貶める意図は1ミリもない」のです。

 

 

 

むしろ、「お前ら分かってねえな!」と

 

読み手に内省を促す意図が入り混じっていると考えるべきです。

(亡き親鸞にその意図はなかったかもしれませんが)

 

 

 

『歎異抄』を読まれる際は、この【大前提】を忘れないことです。

 

 

 

 

 

さて、【大前提】の視点で次の文章を読むと

 

だいぶ「読み手」のあなたの感覚が変わってきますよ。

 

 

③「それは煩悩のせいだけど、仏さまはもちお見通しで、そんな煩悩だらけの俺をも救おうと言われてる」

④「煩悩があるからこそ、往生できるってものなのさ」

 

 

しかし、すでに長くなったのでまた明日w