もう終わっちゃったけどさ・・・ヴァンフォーレは富山相手にホームで快勝この勢いを継続して欲しい・・・
父の日でした・・・。父親孝行しましたか?
2010年僕の父親はあっけなくそして僕や母の願いもむなしく逝きました。
前日に「また来る」「おう」これが最後の会話でした。
昭和11年2月14日この日父は生まれ2010年2月16日74年の生涯を終えた。
最後の誕生日は病院のICUで人工心肺装置に繋がれただ僕や母の呼びかけにも言葉を発する事も無く口や瞼が僅かに反応するだけだった。
2010年2月14日その日の夜病院の帰りに父の誕生日を母と2人でラーメン屋で祝った、主役の居ない誕生日、回復を信じていた。
13日早朝夢の中で電話の呼び出し音を聞いていた・・・やがて呼び出し音は切れすぐに携帯が鳴った、覚えの無い、しかし来ては欲しくない番号からの電話。母親を起こし車に飛び乗り高速を飛ばす・・・わずか2区間・・・時間で30分とかからない・・その時間が長く感じる。車中パニックになっている母親を落ち着かせながら実は自分自身もパニックになりかけていた。
病院について病棟のナースセンターに行くと救急処置室の待合に案内された・・・。その時担当看護士から説明を受ける。突然の心肺停止・・・。
親戚もあつまり僕や母親を気遣ってくれる・・・。やがて担当医に呼ばれ説明を受ける・・・。そして父と対面、人工心肺装置に繋がれ意識の無い父・・・。つい数時間前とは別人のようだ・・・。
ICUに運ばれる・・・本当は手術を終えた後入る予定だった・・・。
割れた湯飲み・・・。心肺蘇生の時落としてしまったようだ・・・。
それから僅か2日後父は逝った。人工心肺装置は3日が限度それでもわずかながら自己心肺もある・・・その言葉に一縷の望みを託して・・・結局はずしてから半日・・・。
今更だけど・・・もっとももっと父親孝行すればよかった・・・。何もかも頼り切って甘えて・・・。
そして・・・今でももっとも後悔していることがある・・・。もしかしたら父を死に追いやったのは僕・・・。父が心配停止
になる前々日、近所で父と仲の良かった方が長い闘病の末亡くなった。僕は父の代理で葬儀告別式の手伝いをする予定だった。その前日夕方その方が亡くなった事と僕が代理で出る事を病床の父に伝えた。直前まで伝える事を迷い結局帰る直前に話した。父は相当ショックを受けたようだった。翌朝…病院から緊急を告げる電話で目を覚まし結局葬儀の手伝いは出来なかった。
もしあの時告げなかったら・・・。
今でもその思いが残っている・・・。
この世の中父親をなくされた方はたくさん居てこのような思いを持っているかたもたくさん居るだろう・・・、僕も今では前を向いて歩いている・・・その姿を見せることが父親孝行となってしまった。だから父親がいる人には父親孝行が出来る人にはしっかり父親孝行をしてもらいたい。もちろん母親孝行も忘れずに。