終戦70年、永遠の平和を誓おう。 | 暫定・綴れば愉快だ宇都宮 熱視線blog(旧・せんだい熱視線 ジミ都市blog)

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最近、8月15日が何の日か知らない人達が増えているらしい・・・。


自分の国の歴史ぐらい、学ぼうよ・・・


と言いたくなるが、70年ってそうなってしまう月日なのか?


(※画像は全て yahoo!画像 より)


終戦の日



大国に戦争を仕掛け、案の定コテンパンにやられ、無茶な作戦で沢山の無駄死にをさせ、アジア諸国に大東亜共栄圏と言って侵略をした・・・国の責任は重大、万死に値する。


僕の親族は、ここ10年で戦争当時を詳しく語れる人が減り、今は91歳の祖母しかいない。(70代もいるが、子どもだったりして、正確には語れない)


全てを聞いた訳ではないが、僕の記憶に残る限りで、当時についてまとめてみた。


祖父(22年前に亡くなった)は、晩酌の時にホロ酔い気分で・・・


近衛歩兵第二連隊第三中隊第二班


と所属部隊を口にする事があった。近衛なので、天皇を含めた皇居(宮城 ※きゅうじょう)の警護をしていたそうで、昭和天皇を間近に見た事があると言う。


戦況悪化で、満州へ行かされた後、中立条約を破ったソ連に攻め込まれ、懸命に戦うも、祖父は捕虜となり、シベリアへ送られ、抑留生活へ。。。


3年後に帰国、その間沢山の仲間がマイナス40度の極寒に命を落とし、思い出すだけでも暗い気持ちになるためか、多くは話してくれなかった。


具体的な戦争についても、多くは語らず、上官から理不尽にビンタされた事は何度か聞いたが、鉄砲の使用等を一切言う事はなかった。。。


祖母は祖父と生き別れた後、終戦の約2ヶ月前に母を産み、想像を超える過酷な状況が待っていたそうな・・・。


住んでいたのは、満州国日本が勝手に中国で作った国、実質日本の植民地)にある新京(現・長春 ※仙台市と姉妹都市)で、同郷の祖父と結婚するため、岩手から満州へ渡ったらしい。。。


赤紙で招集された兵隊では無く、給料兵だったため、待遇が全然違い、暖房付きの官舎を与えられ、現地人のメイドさんもいたと言う。


しかし、終戦で現地人の態度が一変、家に投石したり、押しかけて殺しに来る人が続出、日本人の命が危ないため、集団で内地へ引き揚げる事になり、一部にいた心やさしい現地人から・・・


乳飲み子を連れて行くのは大変だから、置いていったらどうか?責任を持って育てるから・・・


と言われるも祖母は母を連れて行く事にした。(置いていった子ども達は後に中国残留日本人孤児と呼ばれた)


が!移動は徒歩しかなく、途中で中国や朝鮮の人から命を狙われる危険もあったため、移動は基本深夜、その間に病に倒れて亡くなった人達が毎日いたって・・・。


朝鮮半島に入り、北朝鮮では見つかれば石を投げられたり怖かったらしいが、南朝鮮(現・韓国)になると、隠れておにぎりを差し入れてくれる人がいて、今でも感謝の気持ちを忘れた事は無いそうで。。。


朝鮮半島から内地までは船、その間に母がマラリアにかかり、一時は死を覚悟し、海へ投げ入れる寸前まで症状が悪化したが、奇跡的に快復。命からがら帰国した最初の地は


舞 鶴(京都)


内地が見えた時、祖母は・・・


もう死んでもいい


涙を流して、そう思ったと言う。


舞鶴からは、各方面への引き揚げ者専用列車が待っており、ギューギュー詰めで劣悪な車両に押し込まれ、何十時間もかけて岩手へ母子共に生還。


その車内では、誰一人声を発する人はおらず、常に


シ~ン


としていたのが今も覚えているって。。。


祖母は言う・・・。


あんな思いは二度としたくない。

あの過酷さは、体験した人間にしか分からない。

戦争は嫌だ、平和が一番。


そりゃそうだ・・・僕だったら、果たして耐えられたかどうか分からない。。。


安倍首相が出した


終戦70年談話(安倍談話)


どうも表面的で、心がこもっているとは言い難く、平和の誓いも後退したように感じる。


願うは、永遠の平和だけど、今まで日本は内地を侵略されて戦争になった事は無く、全て侵略して戦争になっている。100年も経っていないのにこれでは・・・人間は忘れっぽい生き物と言う事なのか?


10年後、終戦80年の時、兵隊経験者は殆どいなくなり、30年後には戦争を覚えている人自体もいなくなる。怖いのは・・・


誰も戦争を知らない時代


だから今、これだけ証言を集めて映像に残しているんだろうな。。。


全ての犠牲者へ合掌・・・だけど、国は毎年8月15日、愚策で犠牲になった全ての方へ謝罪すべきでしょ?なぜやらない?


日本が攻め込まれて、国を守ろうとしたなら英霊と奉ってしかりだろうが、アホな国のせいで、迷惑を強いて犠牲になったのが本質だよね。それは英霊とは言わない。謝罪もせず、曖昧にするのはいかがなものか?


一般論だが、加害者は忘れ、被害者は覚えている。慰霊式典を見ても、国として犠牲者へ謝罪し、アジア諸国への侵略に対する反省とお詫びは当然だと思ふんだけどな・・・何かが違う。。。



終戦の詔書で、平和国家になると言ってから70年、ず~っと守って欲しい。


当時、連合国から奇妙な国と言われ、今でも


何をするか分からない国


と思われている日本、心から改めるのはいつの日だろうか?