テレビ朝日・小川アナが卒業するらしい。
https://news.nifty.com/article/entame/showbizd/12265-186128/
テレ朝・小川彩佳アナ、一般男性と結婚、退社へ「心から感謝の気持ちでいっぱい」
2019年02月08日 16時11分 スポーツ報知
当初、アベプラ、自体の出演がイレギュラーだったとまで思われるのだが・・・
平成から新元号(おそらくその後、憲法改正もあるだろう・・・ある意味護憲派敗戦ムード)の中で、様々な古参?の人が辞めていく状況となっている。ただ、当然と言えば当然と言えるだろう。急激な時代の変化があるわけだから、である。この表現はある意味正しいと私は思っている。
そもそも、政府・自民党が空母増設化するという話に対して、政府見解から撤退しているのに、国会が空転とか、誰ひとり反対しなかったとかいう時点で、もはや一つの時代の終演を告げているのは明らかだったのではないか。そう思っている。すでに、護憲派は形骸化しているのだ。仮に、政府・自民党が原子力空母を購入すると言っても、まともに反対する勢力がいるのだろうか?
言論の自由
思想信条の自由
内心の自由
医療
教育
歴史
そして・・・個人
そういうものがすべて吹き飛んでいきそうな世の中でも、なお自民党は倒れる事はないであろう。日米安全保障条約がそれを保障している点で。倒れるとしたら、それは野党では無く、実質上の軍事政権ではないだろうか。そう考える。
実際、民進党の前身の民主党は、国民の期待を胸に成立したが、郵政民営化反対(雇用のための再国営化)などの協定は通らず、消費税増税、マイナンバー制度実施、辺野古基地移設失敗、政治資金収支報告書問題、などにさらに東日本大震災という悲劇も重なり、ひどい話となった。(ただ、これらが悪いと言う訳では無く、実際には、党の決定より優先されたものがあったのではないか、と言う推測であるようだ・・・酒井法子事件の報道の延々さも含めて、ではないが・・・)結局、そのことは『誰がやっても同じ』という政治離れに拍車をかける結果となったようだ。
さらに、現在、統計国会により、大幅に統計ミスによる計画ミスも見つかり、国民の生活のデータが下方修正されそうである。(国連負担金の3位下落もあったのだからおかしいとバレるのは当然だったのだろう・・・)
https://www.mofa.go.jp/mofaj/kids/ranking/un.html
国連分担金の多い国
(単位:%、米ドル 出典:外務省 「2017年~2019年 国連通常予算分担率・分担金」(2019年))
国連分担金の多い国
順位 国名 分担率(%) 分担金額(米ドル)
(十万未満四捨五入)
1 アメリカ合衆国(米国) 22.000 6億7,420万
2 中華人民共和国(中国) 12.005 3億3,470万
3 日本 8.564 2億3,880万
☆ 中国に抜かれ、現在3位です。
https://www.mofa.go.jp/mofaj/comment/faq/un_summit/un.html
問1.国連加盟各国の国連分担金の比率はどのようにして決められているのですか。
現行の算定方式の下での国連分担率は,基本的には加盟国の「支払能力(Capacity to pay)」に応じるものとなっています。具体的には,各国の経済力(国民総所得(GNI)の世界計に対する各国の比率)を基礎としながら,合意された一定の算出方法に従って,途上国に対して対外債務や1人当たり国民所得に応じた割引措置,更には分担率の上限(シーリング,22%)や下限(フロア,0.001%)の調整等が加えられます。
中国と言うのは人口が多く貧しい国で無かったっけ?
というのは今は昔、である。
そうでなかったら、爆買いや、観光旅行など出来ないだろう。というわけである。
さらにいえば、日本に留学する中国の人も多い、という。そして、爆買いに対応するのも中国語のできる中国の人であるわけだから、日本にとってどういう経済循環になるのか・・・。
ただ、この中で保守的な話をしてもどうしようもないわけではある。
が・・・国民・住民に対する国の生存権保障については、真摯に考えないといけない時なのではないか・・・と言う事は言えるだろう。
まあ、いろんな意味で護憲派はいない気もするのだけれども・・・。(9条派はいるらしい)
で、小川アナが卒業する中で、何かを言えるとすれば・・・
報道の知識は生活に使える
ということだろう、といえる。
例えば、買い物一つでも、チラシや情報を得て安い安全な買い物をする事ができる、と言う事からしても、報道の知識は役に立つわけである。ただ、今までは公の発信者であったが、これからは、自分の知識のために活かせる立場になった、ということではないだろうか。そう考え、改めて、
卒業おめでとう
と言う事にしたいと思う。(と見ず知らずの人に文を書く人であった)