最近、このブログを放置していた。
理由はいろいろ。その一つは体調調整中もある。それ以外の問題もある。
最近、植木等の手入れが悪い、と数年前(数ヶ月とか、数日では無い)から延々言い個人的に言い続けている案件があるのだが、正規窓口の受け手がノリが悪い。
その件に関する悪口も多い気がしている。団体を通してないからだと思う。
ただ、個人的には、応募者による、正規の正しい提案書、プレゼン、そして、改善(放置による改善も含む)を期待しているのだが・・・。おそらく、諸事情により歪んでいる。
植木等の手入れでは、関係者の知らない内容の文書が急に送られてきて・・・それも不明瞭な内容なのだが、「なあなあ」の中で信用ある名前で文書が届くと、「何々さんが言うなら」みたいな話もあるようだが・・・。
(一体何の内容なのかすら不明な・・・本当に「植木等の手入れ」の内容?どうも胡散臭い。末端まで責任者がすべて情報ネットワーク&グループ会社社員だとやりやすいらしい。そもそも、昔の規定では、その方法は全体集会なしに使えないはずなのだが・・・乱用も含め責任を負う事も了承済み?それでも、諸問題が解決するならいいのだが・・・おそらく複数入らないと解決しないのだろう。ただ、善良な見方をするならば、お世話になっている、という点もあるのかもしれないし、かつ、もっととんでもないものが出てきている状況もあるようであり・・・)
焼き鳥をメインにした居酒屋に『たのしい屋台』という看板を渡して飾ってもらっていて、しばらくよってなかったら、その居酒屋に、持ち込みでエビの揚げものとタイの刺身を持って居ずわられている光景を見たり。世の中、やはり、ムズカシイといろいろ考え込んでしまうこの頃。いや、もってきたエビとタイがおいしければ、受け入れる寛容性もありなのか・・・。
実際、近隣でおいしい食べ物屋があったが、高級感あふれる雰囲気にバージョンアップ?した。ただ、その分、近づきくくなった。おそらく、コンクリートで地盤を固める某場所も、残念ながら高層化により同じような運命をたどるのであろう。ただ、コンクリートで地盤を固める対策自体は講じなければならないと言う絶対条件はあるのだ。他に儲ける方法もあったかもしれない。ただ、こだわりすぎがまずいこともある。
またひとつ、過去のお笑いが消える。それに人が顔を歪ませずに生活できるようになるのだろうか・・・。最後は不満まで、別地域にお住まいの先方にすべて押しつけるだけという、大変楽な話なのかも。先方もそれを理解し始めているような・・・。
なお、上記表現は「ぼかして」書いています。念のため。 ← 重要点です
そのような状況の中で、粛々と個人的にやっている、という状況ではあると思います。
なお、
http://www.itmedia.co.jp/news/articles/1811/19/news059.html
ITmedia NEWS > ネットの話題 > 「これもセクハラ?」内閣府のセクハラ防止ポスター...
「これもセクハラ?」内閣府のセクハラ防止ポスターが物議 片山担当相「貴重なご意見」
2018年11月19日 07時43分 公開(ITmedia)
に関しては、大変な関心を持った。
なお、ポスターは、ポスター全体の図案も大変重要である、という見解もあるようだが・・・。
(引用)
『ポスターは毎年11月12~25日の「女性に対する暴力をなくす運動」期間に合わせて内閣府が作製。今年のテーマはセクハラだった。
東さんの「今日の服、かわいいね。俺、好みだな」などの言動が女性から批判され、「これもセクハラ?」というキャッチコピーとともに戸惑った表情を浮かべるデザイン。約2万7千枚が印刷され、官公庁や交通機関に配られた。
ところが、ツイッター上で「なぜ、セクハラをした側の言い訳がキャッチコピーなのか」と異論が噴出。セクハラの加害者が男性という点についても「女性が被害者、男性が加害者というイメージが持たれてしまう」との声が上がった。ただ、「セクハラへの無自覚・無配慮を戒める内容だ」とポスターの内容を評価する意見もあった。
片山氏は「決して(ポスターの)この図柄だけが正しいとは考えていない」と強調。その上で「より効果を上げていくためにメディアも含めていろんな意見を聞けるきっかけになれば」と理解を求めた。
copyright (c) Sankei Digital All rights reserved.』(太字、下線部、著者)
なお、ポスターは、記載は無いが・・・
セクハラを決めるのは、あなたではない
という強烈なパンチをきかせている。
このポスター、個人的には、大変バランスが取れており、批評に関する日本ジャーナリズム大賞を差し上げたいところである。
ただ、誤解を誘発しそうな面では、ポスターとしてはムズカシイ?のかもしれない。
■ずらずらと書いてしまったが・・・もうひとつ
日本という国は、デモが昭和時代から実質認められなかった国である。
個人的にはそう思っている。
その代わりに、行政や立法、司法に対する期待は高かった、と言えるだろう。そして、それは、個々の国民の性善説により成り立っていた可能性もある。
おそらく、海外でも、そのイメージは高かったのかもしれない。
ただ、その裏側で、批判に寛容なシステム、たとえば、消費生活センター、なども存在しえたわけではあるのだが・・・
いつしか、就労者に対する労働問題や年金問題、無駄な労働の資産運用(そのひとつは重大な不真面目さに起因する)、という問題でそれが維持できなくなり、個人的に命名すると「言語なんてどうでもいいなんでもぱろぷんて超人」社会になり、どんどん進みつつあるのではないか、と考えている。無論、それが、日本同時で起きている保証は無い。
その起点はいくつかあったのだが・・・それによって、移民にある意味寛容な社会になったのは事実ではないだろうか。
もはや、急に、住民の多くが別の言語をしゃべり始めても驚かない程度の国である。ようこそ、日本へ。
このブログにかけるなら、また、書いてみたいとは思う。