日本国内の世論が、こんなにも暴力を容認していることに、驚愕しました。




ジョークを言われた当事者ではなく、家族とは言え全くの別人格が無抵抗な人物に暴力をふるった事に、全米が憤り、また、冷静かつ常識的な知識人及び、エンタメ業界、メディアは非難を表明。


成熟した国家そして成熟した国民ならば、これは当然の反応。



個人的にはそう思ってます。


男を上げたとか、妻の尊厳を守った、カッコいい等々、

一時の極めて情緒的、感情的な解釈により、ウィル・スミス氏の暴力を肯定する風潮が、日本のヤフコメやTwitterで広まったことで、図らずもこの国の未成熟さが露呈してしまった事を大変残念に思います。




ウクライナとロシアの戦争に対して、世論の多くは反戦と非暴力での解決を望みながら、個人の問題は暴力的解決を時として是とする、ダブルスタンダード。



暴力的解決を容認する国民がひとりまたひとりと増え、それが社会を形成し、

国家を成立させた時、


国と国のいざこざも話し合いではなく、いざとなったら暴力的解決を選択する国家国民の行き着く先は、武力衝突の容認であり、戦争です。




私は2000年代の約10年間、ロサンゼルスで生活をして、日本と米国の国民性や文化的、宗教的風習の違いをある程度は理解しているつもりです。



歴史的に見て建国まだ間もないアメリカは、国民が格式あるイベントや歴史的な行事に心から敬意を示し、心から愛しているのです。

その国民的に大切な行事での醜態。


アメリカ国民が一番悲しんでいるのは、歴史と伝統、そして格式あるアカデミー賞授賞式に、暴力沙汰で汚点を着けてしまった事。

そしてそれが世界に放送され、アメリカという国家に恥をかかせてしまったという事。


日本人が思っている以上に、伝統的な行事と国のメンツを大切にするのがアメリカです。


そのアメリカで私は、

多くの事を学び、そしてそれらを自分の人生に反映させてきました。その中でも

人は人、自分は自分という尊重しあいながらも、必要以上にお互い干渉しない精神と、肉体的暴力を容認しないという精神。大まかに言えばこの二つが大切な学びとして挙げられます。



理由は何であれ

各々が暴力を容認する風潮を形成していくことは、とどのつまり社会の混乱と破滅を招く危険な思想です。





特にコロナ禍以降、フラストレーションが個人や社会に蔓延しているのは理解できますが、一時の心理的な衝動により破壊的行動を称賛することで、長年積み上げてきた成熟した社会を、未熟なそれへと逆戻りさせるのは避けるべきです。




無抵抗な人物に対して、暴力沙汰を起こしたウィル・スミス本人も結局、

各方面に正式に謝罪している事からも分かるように、西洋であれ東洋であれ、成熟した先進国に生きる人間が、暴力に訴えるのなら、それはその人物の破滅を意味するのです。



そして冷静さを失った群衆の心理こそ、デモであれSNSの発信であれ、最も暴力的だという事実も、我々はよく肝に命じておくべきと思います。




「平和」という日常にあぐらをかいていないか。我々は今一度考えてみる時が来たのではないでしょうか?





一事が万事、ミクロはマクロへ。人々のくすぶる暴力的な思想の火種は飛び火して、あっという間に全てに点火、何もかも焼き尽くし焦土と化してしまう場合もあるのです。