こんにちは、じきです。

 

 

 私は、一昨年末に20年程勤めた会社を退職し、現在アラフォーヒモニートとして生活しております。

 

 

 今回は、そんな私が実体験した退職や、最近話題の退職代行等について思うことを書きます。

 

 

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 退職したくてたまらなかった。

 

 

 

 冒頭で述べた通り現在無職である私ですが、在職中のほとんどの期間において「退職」をしたいと思っていました

 

 

 

 理由としては、過去記事にしているとおり、私は20年程勤めた会社勤めの間、常にと言っても過言ではない程に、日常の大部分で憂鬱な気持ちを抱えたまま過ごしていたからです。

 

 

 

 その憂鬱な気持ちの中身としては、一日を過ごす中で仕事に縛られる時間の割合が多すぎたり理想と現実のギャップだったり、建前で都合の良いこと言っても所詮は言葉遊びでしかなく、現場的には何も執務環境が改善しない等の理不尽だったり、己の不出来だったり、実に様々でした。

 

 

 

 例えば、配属先次第では通勤だけでも片道1時間超かかることもあるのに、朝は「始業時間」よりもかなり早く出社して準備をしないと色々な面で間に合わなかったり夜は「定時」を軽く無視して、何なら残業して当然くらいの空気感が漂っていたり。

 

 

 

 腹が立つのは、終業時間は曖昧にするくせに、朝の遅刻には死ぬほど厳しいんですよね。

 

 

 

 ただ、ごく近年においては、終業時間については守るように心掛ける企業も増えてきたように思います。

 

 

 

 いや、正確には、管理職等の一部の役職の人を犠牲にした上で平社員等の終業時間を担保するようになったところが多い、といった印象でしょうか。

 

 

 

 建前でいくらライフワークバランス等と謳おうと、他社からの納期等は待ってくれません。

 張りぼてのような美辞麗句を守るために誰かが割りを食うケースは、少なくないと思います。

 

 

 

 

 …私が退職を決めた大きな理由の一つは、実はこの「割りを食う」という部分です。

 

 

 

 

 年齢が若くないから、役職があるから、単身者だから。

 

 

 

 実に様々な理由で、他の誰かの自由時間等を確保するために自分の仕事量が多くなるケースが、年々増えました。

 

 

 私が若かったころはワークライフバランスなんて当然の如く守ってもらえてなかったのですが、私が年をとってきた近年は会社もワークライフバランスを大々的に広報し、主に若手や育児がある社員を優先して業務時間を減らしたりきっちり守らせたりようになりました。

 

 

 

 それ自体は素晴らしいことだと思います。

 

 

 定時は守られるべきだし、有給や育休も権利なのでどんどん使えば良いと思っています。

 

 

 

 ただ、肝心の私自身「他者のワークライフバランス」を守るために自分の労働時間が長くなっていくという糞ムーブに、ほとほと嫌気がさしたのです。

 

 

 

 単身者は総合的に見て国に対する貢献度が少ないとか、未来ある若者を潰さないためとか、育児しやすい環境作りとか割りを食う理由には、実に沢山の正論が武装されています。

 

 

 

 それを、理屈では理解しています。

 

 

 

 しかし、どんな正論があろうとも、私にとって一番大事なのはやはり「自分の人生」です。

 

 

 

 本音を言えば、会社でしか会わない程度の関係性である同僚の育児・育休等のために自分の身を粉にしたくなどないし、単身者だからという理由で遠くまで転勤させられるのだって嫌です。

 

 

 

 在職中はもちろん、そんな感情を表に出すことはなかったです。

 

 

 これは必要なことなんだと必死に自分を納得させようと頑張っていましたし、他の社員のワークライフバランス等を害すことは全くと言っていいレベルで無かったと言えます。

 

 

 

 けれど、仕事を辞めて色んなことから解放された今になって正直に思うのは、繰り返しになりますが、やはり「自分の人生」の方が100万倍大事だなということです。

 

 

 

 もちろん、自分の家族のためであれば、自己犠牲の精神もやむなし、と思えます。

 しかし、他人のためにその心を持ち続けるのは限界があります。

 

 

 

 その上、多くの場合では、他人のために割りを食うことに不満を漏らそうものなら「単身者のくせに」「役職があるくせに」「ワークライフバランスも守らないハラスメント野郎」みたいな空気感になるわけです。

 

 

 

 何の罰ゲームですか合格

 

 

 

 私の場合、自分の根っこが怠惰な性格であるため、日々退職…というか、そもそも「労働」から完全に解放されることを願って日々を過ごしていました。

 

 

 

 実際、永続するかはさておき、労働から解放された生活が現実のものとなり1年半ほど過ごしてきた今思うのは「労働をしない選択をとって良かった」ということに尽きます。

 

 

 

 正社員だとか社会的信用等にもっと後ろ髪を引かれたり、無職の自分に嫌気がさしたりするのかとビビっていましたが、実際は自分でも驚くほど未練を感じることはなかったです。

 

 

 

 それどころか、在職中に比べたらとんでもなく快適です。

 

 

 

 悩みが全く無い等というのは無理がありますが、寝たい時に好きなだけ寝て、身体を適度に動かして太陽を浴びて月曜日の朝は別に宿敵でもなんでもないのだなぁとしみじみ感じます。サザエさんを観るのも楽しみです。

 

 

 

 

退職代行

 

 

 さて、ここ最近は退職代行を用いて退職するケースが急増していますね。

 

 

 

 気持ちはわかります。退職の意向を、自分で直接上司等に伝えるのって、思った以上に緊張等しますので。

 

 

 

 上司等に面と向かって退職を伝えることの難しさ申し訳なさ、そもそも「退職」という言葉を自分から口に出すことに対して、のちに後悔等の自責を感じてしまいそうな恐怖感。

 

 

 

 それらの自責等の自分の感情を、退職代行を通すことによって、和らげることが出来るのだと思います。

 

 退職自体は自分のことなのですが、なんとなく他人事かのように認識することが出来るのでしょう。

 

 

 

 手続きが煩雑だとか辞めさせてくれない等というのは多くの場合は建前で、単に自分が傷つきたくないという自己防衛本能や自己愛が、退職代行をつかうほとんどの理由ではないかと思います。

 

 

 

 私が勤めていた会社も、毎年大勢の新人が入社してきておりましたが、特に1月、5月、7月あたりはごっそり新人が辞めていくケースが多かったです。

 

 

 やはり、長い連休を挟んだり人事異動の時期になると、気持ちが憂鬱になり、退職を選ぶ人が多くなる傾向があったのだと思います。

 

 

 

 私自身は、退職代行を用いず、直接上司やトップに退職の意向を伝えました。

 

 

 

 毎年のように転勤があるため、退職を伝えた相手は、私とほぼ初対面の上司等でしたが、やはり会社自体には少なからず恩も感じておりましたし、仕事を通じて他人の事情がわかるようになったので入社前より他人のことを許せる人間になれたことも確かです。

 

 

 

 とはいえ、退職するにあたって、会社側への配慮など過度にする必要はないと思っております。

 

 

 

 ただ、それでも、日本の労働に関する仕組みだと、真っ当に営業している会社ほど社員を雇うということ自体に負担やリスクがとても大きいため、それらを肌で感じるためにも「直接言う」方が、個人的には良いのではないかと思っています。

 

 

 

 それは会社のためではありません、あくまで、今後の自分のためです。

 

 

 

 退職を伝えることにより、たとえ何らかの敵意等を自分へ直接向けられたとしても、それらは裏を返せば辞めてほしくなかった、ということです。

 

 

 

 同じ退職するにしても、人との衝突等の実体験を伴うか否かでは、こと成長という点では大きく違うのかなと個人的には思います。

 

 

 

 自分のことを過保護にしてくれるのは、あくまで自分だけなのです。お金を払えば自分の代わりに交渉してくれる退職代行は、優しさではなくビジネスです。

 

 

 

 まぁ、なにはともかく、せっかく退職することを選んだからには、この先まだまだ続く人生を、なるべく健やかに過ごしていければいいなと思っています照れ

 

 

 

 

「お客様待遇」生きてきた人々

 

 

 

 退職代行が流行る理由として思い浮かぶのは、やはり現代の若者が当たり前のように「お客様待遇」で過ごしてきたことも大きいかと思います。

 

 

 それは別に若者がすべて悪いわけではなく、教育する側や社会の風潮やSNS等の発達が大きく影響していると思います。

 

 

 

 何せひと昔前までのように、教師が物分かりの悪い子をゲンコツするような真似は間違っても出来ません。

 

 

 

 それどころか、強めの言葉で叱ること等すらも、ハラスメントだとか言われたり、揚げ足を取られてSNSに投稿されたりするケースもあるわけです。

 

 

 

 そのようなリスクを負ってまで、他人躾けてくれるような教師ばかりではないのは、ある意味当然とも言えると思います。

 

 

 

 なお、近所に住む大人程度の距離感の大人達等なんて、猶更他人の子供に対し、迂闊に接触をするわけにはいきません。

 ひと昔前までなら注意喚起出来ていたことを、見過ごしているケースも多かろうと思います。

 

 

 

 また、正直、現在の小学校くらいまでの子供を抱える親世代の方も、子供を躾るという点に置いて、全体的に以前よりも大きく質が落ちたと感じます。

 

 

 

 それについては様々な場面で以前から感じていたことですが、私が最近でそれを顕著に感じたのは、ディズニーランドに行った時のことでした。

 

 

 

 その日、私はおよそ10個ほどのアトラクションの列に並んだのですが、そのほとんどの列で、人の合間を縫うように走りまわる子供地べたに座り込んで駄々をこねる子供全く叱らない親が、複数存在したのです。

 

 

 

 それどころか、自分達が列に並んでいる途中に落としてぶちまけたポップコーンを「はやく従業員片づけてくれるといいねー」などと無視し踏みつけていく親子も居ました。

 

 

(ナ、ナンヤ、コイツラ…!!)

 

 

 なんというか、イメージ的にはひと昔前の中国人等がやっていたようなことを、平気で日本人もやるようになってしまったのだと、軽くショックを受けました。

 

 

 

 犬猫等と一緒で、人間だって、をきちんとされなければ身体が大きいだけのチンパンジーみたいなもんです。

 

 

 

 人間も所詮一動物でしかないということを、もう一度、多くの人が己を振り返って見直した方が良いのかもしれません。

 

 

 

 勿論、こういった人が全てではないということは承知しております。しっかりしている人は、本当にとんでもなくしっかりしてます。

 

 

 

 しかし先述したような、幼少期の頃より親からも大して叱られず、学生時代も教師や周りの大人からある意味過保護に扱われ、とてつもなくぬるく、いわばお客様待遇で育てられてきたのならば、社会人になっていきなり「じゃ、自分の力で頑張れよ」等と言われても、すぐギブアップしてしまう子が多く存在するのも頷けます。

 

 

 

 恐らく、今までその子達の人生の中で過保護に接してくれた人達は、多くの場合で、その子達のことを可愛かったわけでも大切にしていたわけでもなかったのではないかと思っています。

 

 

 どういうことかというと、その子達に下手に手出し口出し等することにより自分達に降りかかってしまうリスクを小さくするため、そもそも関わりあいになりたくなかっただけですので、多くの場合で、その子達にとってキツイこと等は言わないわけです。

 

 

 

 それなのに、いざ社会人になり、特に客対店員や、当社対他社等の、正真正銘の赤の他人という立場の間柄ならば、当然のことながら、なんの配慮も遠慮もされず100%の敵意等を向けられたりもします。

 

 

 だって、本当はその子のことになんて、言葉を選ばずに言えば、多くの人がどうでもいいと思っているからです。

 

 

 

 そういった、生の剥き出しの感情に触れる都度「ハラスメントだぁぁ」と叫んでも、学生という身分を失効した人間に対しては、中々社会はバックアップを積極的にはしてくれません。

 

 

 

 それどころか、社会人でしょ、大人でしょと、加齢を重ねていくほどに真綿で首を締めはじめます。

 

 

 

 対人間の生のコミュニケーションは、慣れが必要です。

 

 

 特に、ネット上で対話するような文字だけののコミュニケーションではなく、面と向かい感情と感情をぶつけあうような場面ならば猶更です。

 

 

 

 誰もが、有名ユーチューバーのような生活を送れるのであれば、それは願ったり叶ったりです。

 ただ、現実は「好きなことだけをして生きる」というのは、ある種の尖った能力がないと叶わないことがほとんどです。

 

 

 

 そのため、現実には教師等の方に問題があるケースも多々あるのは重々承知しておりますが、やはり学生時代くらいまでの年代の人間には、ある程度の厳しい躾は必要なのじゃないかと感じております。

 

 

 

 そういった躾に裏打ちされたある程度の打たれ強さは、生きていくにあたり必要不可欠なものだと思うのです。

 

 

 

 何せ、支援やサポートなど口ばかりで、現実問題そんなに他人は自分を助けてなどくれないからです。

 

 

 

 

 願わくば、誰しもが生きやすい社会が訪れてくれたら良いとは思います。

 

 

 

 ただ、テクノロジー等がいくら発展しても、人間という生物そのものの基礎能力本能的な言動は、少なくともここ1000年くらいは大して進化していないわけですので、建前だけの美辞麗句などを鵜呑みにしていると痛い目を見てしまうことでしょう。

 

 

 

 一部のアフリカや南米諸国等の争いや生活ぶり等を見て「野蛮人だな」「レベルが低いな」等と本気で思って居そうな人が多そうなのも恐ろしいですね、本質はどこもかしこも一緒です。仮に「レベル」と表現するのなら、ほぼ全員が漏れなく大したことありません。

 

 

 

 

 さて、最後に…

 私は個人的に、人間は理性ではなく、どこまでも感情の生き物なのではないかと思っています。

 

 

 

 

 目の前の人に対し、ほんの少しの接触だけで、自分勝手に「敵」等と分類するのは、あまりよろしくありません。

 

 

 

 頭でっかちに相手の立場や年齢等で相手の全てを図ろうとせず、まずは余計な自分の物差しを取り払い、目の前の相手に対ししっかりとリスペクトを持って接するところまできて、初めてようやくまともな「コミュニケーション」をするための土台が出来上がるのだと思います。

 

 

 そういう類いの、相手のことをまず理解する・大事にする等のコミュニケーションをなくして、自分だけが大事に扱われることなど、あるわけないです

 

 

 

 確かに世の中「敵」も死ぬほど多いですが、言うほどたかが1カ月程度で他人や会社等を見切れるほど自分の眼力なんて優れてないですし、他人も鬼ばかりではないものです。

 

 

 コミュニケーション次第人と人との関係性等はガラリと変わったりもします。

  今居る環境をただの地獄とするか、たとえ愚痴を言い合いながらも居心地自体は悪くない場にするか否かは、割と自分次第なのです。

 

 

 

………

 

 

 さて、いつもとおり話がとっちらかりました。

 

 

 まぁ、無職があれこれ考えていても仕方ないですね。

 

 

 結論・どうせなら無職を楽しみましょう照れ