こんにちは、じきです。

 

 

 私は、一昨年末に20年程勤めた会社を退職し、現在アラフォーヒモニート生活を送っております。

 

 

 今回は、そんな私の身体のメンテナンス等の難しさ等について思うことを書いていこうと思います。

 

 

 不快な方は、いつも通りブラウザバックしていただくようよろしくお願いします。

 

 

 

 身体=精密機械

 

 

 

 私は、昔から身体が頑丈な方ではありません。

 

 

 この日本という国だからこそ、高水準な医療をある程度気軽に活用出来るため騙し騙し生きてこられましたが、そこは流石にアラフォー。寄る年波をひしひしと感じる日々です。

 

 

 

 年齢を重ねる都度、若い頃ってやはり良かったなと感じます。若さって、本当に素晴らしいものです。

 

 

 

 過去記事のとおり、私は言うほどあまり若い頃を楽しめなかった口ですが、それでも脳のホルモンバランスや身体能力や自己治癒能力等、若い頃というのは人生を楽しむためのツールが勝手に装備されている状態だったなぁと感じます。

 

 

 

 さて、今回書こうと思っている私の身体についてですが、昔から中々のポンコツボディです。

 

 

 

 身体能力自体も低水準ですし、少し酷使しただけで筋を傷めたり、激しく頭痛を起こしたり、こむら返りを起こしたり我が事ながら腹が立ちます。

 

 

 

 そして、身体の不調等を患うたびに毎回思うのです。

 人間の身体って下手な精密機械より精密機械しているよな、と。

 

 

 

 本当に絶妙なバランスで、身体の各パーツは役目を果たしております。

 反面、そのバランスが何らかの拍子で崩れた場合、人によっては立て直しが非常に困難だったりします。

 

 

 

 なにせ「どのパーツに不具合が生じているのか」を正確に把握しなければならないし、数ある医療機関の中からピンポイントで必要なものを選ばなければならないし、つらいからといって安静にばかりしているわけにもいきません。

 

 

 

 私自身は、身体がトラブる都度、果たして元通りになってくれるのか毎回不安です。

 

 

 切り傷や風邪等のように、患部や症状をある程度把握出来たり、「これ」という治療方針がセットになっているものなら、まだマシです。

 

 

 

 しかし、例えば、私が抱える「視野が欠ける偏頭痛」「何も食べられなくなる視覚過敏」などは、根治の方法がありません。

 

 

 発生する都度、脳外科や歯医者等に飛び込みますが、結局は対処療法で症状が緩和するまでやり過ごすしか道がありません。

 

 

 特に「視野が欠ける偏頭痛」に関しては、毎回本当に怖いです。

ミエナイヨォ…!

 

 

 症状としては、視界の一部が、何の前触れもなく突然モザイクがかかったようになって見えなくなるのです。

 

 

 俗に言うカスミ目みたいな感じではなく、本当に視野の一部分が見えなくなります。続いて、頭が鼓動をうつ速度にあわせ、ドクドクと痛むようになります。

 

 

 スマホ等も、一部分だけ完全に画面が認識出来なくなるため、文書等を打つことも困難になります。何より、脳溢血のように死に繋がる症状の前兆なのではないかと、心底怖くなり冷や汗をかきます。

 

 

 

 たまに痛み止め等の対処療法で何とかすればOKみたいな人いますけど、当然痛み止め等では原因の根治はされていませんからね。

 

 

 

 原因が根治されていない限りは、また「不安なままやり過ごすしかない時間」の訪れる可能性が高いまま過ごしていくことになるわけです。

 

 

 

 つくづく、身体って奇跡的なバランスで「正常」や「健康」を保っているのだと思います。

 それ故に、原因が目で見てはっきりわかるような不調じゃない限りは、健康を取り戻すことが難しいのだろうと思います。

 

 

 

 私は、実に様々な身体の異常・変調等を経験してきましたし、その都度医療機関等に頼りつつ、なんとか日常生活を送ってきました。

 

 

 

 そして、身体が何とか元通りになる都度、普段当たり前に感じているありとあらゆる身体の機能が、何の意識をしていなくても正常に働いていてくれることに、この上ないありがたさを感じるのです。

 

 

 

 

 身体の減価償却

 

 

 

 私は在職中、簿記を扱う機会も多かったです。

 

 

 簿記の世界では、世の中の様々な物品類等について、明確に耐用年数というものが定められています。

 

 

 例えば、居住用途の木造住宅なら22年、一般的な普通車両なら4年…といった具合に、時間の経過とともに徐々に資産価値の減価償却が行われ、あくまで資産価値という視点で見れば、各耐用年数を経過しきると、簿価上の価値は限りなく0に近くなるというものです。

 

 

 

 そして、人間の身体も、簿記でいうところの減価償却が年々進んでいるものだと個人的には思っています。

 

 

 

 なお、人間の身体の耐用年数は、簿記で算定されている物品類等のように統一されているわけではなく、人によって身体の耐用年数は大幅に違うものだと感じています。

 生まれながらに頑丈な人・普通な人・貧弱な人とでは、明確に耐用年数は違うことでしょう。

 

 

 

 私自身は、自分の身体が貧弱ということもあり、自分自身の耐用年数はとっくに0近くになっていると思っています。

 

 

 

 ただ、アラフォーという私の年代になると、身体の減価償却がほとんど終わってしまっているのは無理もない話なのかもしれません。

 

 

 

 

 なにせ、人間という生き物は、現代のように栄養を安定的に摂取できる環境ではなく、仮に自然環境で生きていた場合の「自然寿命」だと、その寿命は38年程と言われているらしいですし。

 

 

 

 

 それならば、私が属するアラフォー世代って、身体的には、俗に言う「高齢者」という水準まで生きるまでもなく、既に延長戦に突入している状態であると思います。何せ、自然寿命は既に迎えてしまっているからです。

 

 

 自然寿命を既に迎えており、簿記的に言えば既に資産価値が0に近いものをやりくりしていくのだから、ある意味身体の不調に四苦八苦するのは当たり前なのかもしれません。

 

 

 

 …まぁ、とはいえ実際は現時点では食べるものにも困ることはほぼ無いですし、医療機関に頼ることも出来るわけですので、生きる上でなるべく最善は尽くし、元気で居られる限りは元気で居続けたいなぁと思います。

 

 

 

 一度壊した身体は、やはり「完全なる100」には戻りません。治るは治るのですが、身体の状態の最大値が明確に下がります。

 

 

 身体を壊す前の最大値が100だったのが、完治と言われても身体の状態が95止まりだったり90止まりだったり。

 「治った」はずなのに、どんどん身体の状態の最大値自体は下がっていき、壊れやすい状態になっていきます。

 

 

 

 諸行無常です。

 心身ともに大事にしていきたいものですね。

 

 

 

 未来ばかりに気をとられていませんか

 

 

 いつもとおり話が脱線しますが、身体の不調等に限らず、不安感を煽る要素って、世の中に沢山ありますよね。

 

 

 例えば以前の私は、未来のことを考えると、憂鬱になってきたり不安に感じることって多いです。

 

 

 自分の身体や境遇等のことだけじゃなく、円安や戦争や自然環境激化等、自分の力ではどうにもならないことが世の中目白押しだからです。

 

 

 

 けれど、仕事を辞めてみて、時間がたっぷりできて思ったんです。目先を大切にしていけば、結局は未来を大切にしているのと同義であると。

 

 

 

 未来の、自分の力ではどうしようもないようなことに考えを巡らせて、いちいち不安感や焦燥感等を感じていては、身が持ちません。ただでさえポンコツな私のボディが、ますます悲鳴を上げてしまうだけです。

 

 

 

 なにか「こうなりたい」とか「ああなってはいけない」とか、多くを望んだり恐れたりするからこそ、その望み等を叶えられなかったりした時に悲しみや絶望等が生まれてしまうのだと思います。

 

 

 

 そもそも、私的には、必ず訪れる保証なんてどこにもない「未来」のことなど、気にしている場合ではないのです。

 

 

 

 将来、老後…そういった「未来」など訪れるまでも無く、先述のとおり、既に現時点で人生は「延長戦」なのです。

 言うなれば人生のおまけステージをプレイしているような状態です。

 

 

 

 確かなのは、自分の身体にガタがくるにしろ戦争や自然災害等が起こるにしろ、それらの「未来」が訪れるころには、自分の生き物としての寿命が本当に間近に迫っているだろうということです。

 …何だか、自分が死ぬ間際の未来のことなんて真面目に考えているだけ心底馬鹿馬鹿しいです。

 

 

 

 

 明るい明日を待ち侘びたり暗い未来が訪れることを不安がるより、今朝無事に目覚め、太陽を浴びられたことを喜びたい。

 目玉焼きでも焼いてトースト頬張れば最高にハッピーです合格

 

 

 

 

 この延長戦を当たり前のものと思わず、目先の自分の身体や生活をめっちゃ大事にして、生きられるところまで生きていきたいと思います照れ