こんにちは、じきです。

 

 

 今回は、一昨年末に20年程勤めた会社から退職し、現在アラフォーヒモニートである私の、物の価値について思うところについて書いていこうと思います。

 

 

 不快な方は、いつも通りブラウザバックしていだたくようよろしくお願いします。

 

 

 

 

 今後ずっと続くであろう物価高

 

 

 

 現在進行形で、色々な分野で、物やサービス等の値段が急上昇中ですね。

 食品にはじまり、光熱費やおまけに社会保険料等も値上げが進むという、とんでもない時代に突入です。

 

 

 

 身近なところだと、スーパーに行くと本当に色んな物が高くなったなぁと感じます。

 

 

 肉や野菜に関しては、広告が出ている品を選べばある程度安上りで済みますが、私が大好きな魚類は、満遍なく高くなっちゃいましたね。

 

 

 生魚は勿論のこと、調理済の焼き魚一切れで300円超なこともザラにあり、魚好きとしては悲しい次第です。鯖やサンマが100円で購入出来ていた頃が懐かしい。

 

 

 

 現代って、生活費に限ったことでもなくどういう面を切り取っても、明日は何がどうなっているか予測がつきにくかったり、楽観出来る要素が少なかったりで、大変ですね。

 

 

 

 文明的には昔より発展し、相当便利になっているのは間違いないのに 肝心の人間という生物自体に、それらの発展した文明を、皆で仲良く円滑に活用・運営していけるだけの器量等があまり備わっていないため、これから先もっともっとカオスな状況になっていくことがほぼ確定しているのが残念です。

 

 

 

 物の価値

 

 

 

 さて、話を戻します。

 

 

 私自身、身近にある色んなものが高くなったなぁと肌身に感じておりますが、そもそも「物の価値」について、昔から不思議に思うことが多かったです。

 

 

 

 物と一言で言っても種類は様々ですので、食品を例にしつつ書いてみます。

 

 

 

 例えば、私が大好きな玉ねぎは大体1個50円前後です。

 反面、大して食べたいと感じたこともないキャビア1瓶10,000円前後したりもします。

 

 

 

 私的には、この玉ねぎ1個50円というのは、とんでもなく幸運なことです。

 もし価値の評価がキャビアと逆だったりしたら、半年こづかい貯めて玉ねぎ買わなきゃならなくなります。

 

 

 

 例えこの先、玉ねぎが1個1,000円くらいになってしまったとしても、あの味を1,000円で得られるのであれば、恐らく私は買ってしまうと思います。

 

 

 

……

 

 

 さて、私は、そもそも自分自身で美味しい玉ねぎを育てられるような土地や知識等を、持ち合わせておりません。

 

 

 私以外の誰かがたまねぎを育ててくれて、誰かが私が買える範囲の場所まで運搬してくれて、誰かが選びやすく陳列してくれて…そこまでお膳立てしてくれたものを、50円という対価だけで購入しているわけです。

 

 

 

 そんなこと、別に当たり前だろうとも思います。

 幼い頃から現在に至るまでの「ごく普通のこと」ですし、サービスを受けるための対価もきちんと払っていますものね。

 

 

 

 ただ、個人的には、別にたまねぎに限ったことではありませんが、先述したお膳立てに物凄く助けられているという感覚があります。

 

 

 

 例えば、実際に私が玉ねぎを自分で栽培しようとしたら、一体どれほどの手間暇等がかかるのか。

 

 

 

 たとえ家庭菜園レベルだとしても、品種の選別や土や備品の準備、たまねぎを生育し食べられる状態にまで育てるための数カ月という時間。

 そしてなにより、50円では済まないであろう栽培費用等。

 

 

 

 今すぐに、玉ねぎが食べたい」

 

 

 …仮にそんな想いを持った私が居たとして、実際にたまねぎを食べられるのは何カ月後になることでしょう。

 

 

 そして、その何か月後に、確実にたまねぎを食べられるという保証もありません。自分で栽培する以上は、栽培自体の失敗等だって当然あるわけです。

 

 

 

 繰り返しになりますが、それが、50円という対価だけで、自分の力だけでは調達するのが大変なものを、自分の食べたいタイミングに即時あんなにも美味しいものを購入できるのです。

 

 

 

 控えめに言ってもの凄く価値を感じます合格

 

 

 

 これは、50円という価格が安くて物凄いという話ではありません。

 

 

 本来は、自分が必要な時に、自分で用意出来ない物品等なんて、足元を見られて値段を釣り上げられたって文句言いようもないのだろうに、ラッキーだなぁと思うだけです。

 

 

 

 そんなことをしたら商売にならないだろう、というのは平和な飽食の時代だけを生きてこられたからこその意見かもしれませんね。今後も平和な時代が続くことを願うばかりです。

 

 

 

 

 他人の力により得られているもの

 

 

 

 確かに、色々なものが以前に比べれば劇的に高くなりました。今後、本当に生活するに不便なレベルになっていくのだろうなぁという実感もあります。

 

 

 

 ただ…先述した玉ねぎの話題に限ったことではありませんが、結局は、自分で調達等出来ないゆえに、他人の力を借りて得る成果物等全般は、この先、金額の多寡はおろか生産から流通に至るまで、どうなろうと従うしかないのは、ある意味仕方がないことなのではないかと思うのです。

 

 

 

 玉ねぎの例のまま話を進めるのであれば、自分がたまねぎを調達出来るか否かについて、栽培・流通等の大事な部分を、他人の力を借り任せているわけです。

 

 

 

 それならば、仮に玉ねぎが1個10,000円になったとしても、自分にとって必要であるならば、提示された対価を払って取得する以外の選択肢はありません。

 

 

 

 

 だって、自分自身に、美味しい玉ねぎを、安定的に食べたいタイミングで作り出す能力等が無いですので。

 

 

 

 

 当然のことですが、やろうと思って取り組めば「玉ねぎだけ」であれば、自分自身でも作れなくはないでしょう。

 

 

 

 しかし、実際に玉ねぎを食べる際には、美味しく調理するために他にも色々な食材や調味料が欲しいところですよね。

 

 

 

 そうなると玉ねぎに限らず、家畜の肉や、植物等からとれる油や、海からとれる塩等も必要になってくるわけですが、これはまた話が格段に違ってくると思います。

 

 

 

 もし私が「塩気の効いた美味しい肉野菜炒め」を、全ての材料を自分で栽培・育成する等して作ろうとしたのならば、それは何年後の話になってしまうのでしょうか。

 

 

 

 材料の一つである豚肉を得るだけでも、子豚を買ったり育成したり果ては屠殺したり、その後も安定的に豚肉を食べたかったら豚を繁殖させなければならなかったり時間や労力やコスト等、とんでもないことです。

 

 

 

 それが身近なスーパー等で、鮮度も良い状態の肉が1g約1円の対価で購入出来るだなんて、ある意味奇跡的な気がしてきます。

 

 

 

 勿論、現状の色々な分野での価格高騰について、出来ることならばより安くなってほしいと切に願ってはおります。

 

 

 

 ただ、私的には、苦しさを感じつつも、仮に食材価格の問題一つに絞って考えてみたとしても、先述のとおり、誰かが栽培・育成等し、誰かが運送してくれて、誰かがわかりやすく陳列等してくれたお陰で、身近にあるスーパー等に行き対価さえ払えば即時に満足を得られるのであれば、たとえ高かろうと、それはもう、あまり文句言えないかなぁという感覚なのです。

 

 

 

 

人が決めた価値

 

 

 

 食品に限らず、多くのは、私が生まれた時には既に、ある程度の価値基準が定められておりました。

 

 

 

 これには価値がある、あれには大した価値が無い等…色々と価値基準が定められているのは良いことではありますが、反面、それが悪い意味で意識の刷り込みや、固まった先入観等を生み出してしまっているケースもあるように思います。

 

 

 

 100均で買える時計も、うん千万円するような高級時計も、同じように時間は正確に測れます。

 

 

 

 GUから1,000円で購入する服も、SUPREMERから100,000円で購入する服も、同じように素肌を守れますし快適に過ごすことが出来ます。

 

 

 

 素材が良いとか格好いいとか機能性とか、付加価値の多さを追求していけばキリがないのかもしれませんが、個人的には時計の価値の大部分は「時間がわかること」で、服の価値の大部分は「素肌を紫外線から守ること」だと思っています。

 

 

 なので、世間的に見て価値が低いと評価されている物品等だとしても、一向に困りもしなければ恥ずかしさや不便等も感じません。

 

 

 

 もちろん、格好いい物自体は大好きですし、各種ブランド類は質が良いなとも感じます。

 ただ同時に、あくまでそれらは余分な要素であるとも感じます。

 

 

 

 そのため、色々な物の価値について、どの部分に価値を見出すのかは、他人からの評価ではなく、大部分は自分の評価だけで良いのではないかと思います。

 わざわざ、他人が決めた価値観振り回されてあげる必要はないのです。

 

 

 

 いつも通り脱線しますが、物に限らず、人間や生き方についても同じようなことを意識してもいいのかなと思います。

 

 

 

 プロスポーツ選手のように強い身体がなかったり、俳優のように華やかじゃなかったり、医者のように頭が良くなかったとしても、美味しいものを食べれば嬉しくなるし、桜を見れば感動出来たりもします。

 

 

 色んな人からいじめられて「お前には価値がない」と烙印を押されたとしても、自分で自分の価値を信じて生きていれば、いつかは自分という人間にしっくり来る瞬間が訪れます。

 

 

 

 私自身、過去記事のとおり苛烈なまでにいじめられていたため、よくわかります。

 

 

 

 他人から自分の価値を認められることに足掻くより、自分で自分の価値を素直に受け入れることが大切かと思います。

 

 

 

 自分という資産の価値が、他人から見た際に低いと評価されようが、関係はありません。

 他でもない自分自身が唯一無二である自分の価値を認め、自分の脳を喜ばせられさえすれば、それ以上の大満足はそうそう無いかと思われます。

 

 

 

 

 

 まぁ、ヒモニートに価値はないと言われたらぐうの音も出ませんけども。

 でへへ照れ

 

 

 

 

 

 清少納言のようなポエミーな気持ちで生きるしかないっすね。

 

 

 春はあけぼの。やうやう白くなりゆく山際、少し明かりて、紫だちたる雲の細くたなびきたる。我、ゲェム完徹意識混濁でマロし。