ごみ屋敷と化した実家は

建坪40坪の2階建て。


父は不器用な人でしたが
私にはとても優しい人でした。

中学から不登校になり
せっかく受かった高校も
すぐに辞めてしまった私を
一度も責めることはありませんでした。



ドライブに行かないか。
外食しないか。
そう言ってよく車で
一人暮らしの私のマンションに迎えに来てくれました。


道の駅のスタンプラリーが好きで
まだ暗いうちから出発することもありました。


おかげで私は
東北中の道の駅に妙に詳しくなりました。


今振り返れば
世の中との繋がりが切れないようにと
父なりに考えてくれていたのかもしれません。


父から見れば私は自慢の娘だったらしく
「純情娘に立候補しないか」
と、
時々言っていました。



そんな父が今
病院のベッドで生死の境を彷徨っている。

その現実を受け止める暇もなく
私はごみ袋を握りしめていました。




とにかく無我夢中でごみ袋に全てのものを詰め込み、詰め込み、詰め込みまくりました。

私の両親はものを捨てるということを
しない、所謂昭和の人でした。

身体が不自由になる前は料理上手だった母が
毎日作ってくれるお弁当は
クラスメイトからいつも羨ましがられたものです。

昔のお弁当箱や、調理道具、鍋などが次々と戸棚の奥から発掘される度に
懐かしい想い出に浸りそうになりながら

ブンブンと首をふって気を奮い起たせ
想い出にフィルターをかけて取り組みました。

かつては家のシンボル的存在であった
カウンターテーブル付きの対面L字型キッチンは

もはや死んだ巨大なクジラのようでした。


油とごみで埋め尽くされていて
昼でも光が入ってこず
異臭を放っていて、
そこにいるだけで
暗闇に堕ちていくような感覚でした。

母が普段から開けるなと制止していた地獄のような冷蔵庫も、
結局は私が向き合う羽目になり
プラスチックのゴーグルをつけて
中にあるものを袋に詰めました。ゴーグルをすると
少しモヤがかかって見えるので
だいぶ作業がましでした。

それでも得たいの知れない大量の液体や
化石とかした未開封の大量の卵のパックなど

それはもう恐怖そのものでした。

私が必死で片付けている頃

母はリビングの隅で
ひたすら私に背中を向けていて

テレビを観ているのか
何を考えているのか
私には何の言葉もかけてくれませんでした。

続く。