政治的詐欺師に騙されないために | 爺庵独語

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爺庵の独善的世相漫評

 以下に示すのは、フランスの社会学者・心理学者ギュスターヴ・ル・ボンの著書『群集心理』(講談社学術文庫)からの抜粋である。爺庵は四年半ばかり前、橋下徹というペテン師が大阪府知事となって登場して半年程過ぎたころ、橋下の弁舌がなにゆえ大衆に支持されるのかが知りたくて、偶然知ったこの本を手に取った。
 そして知ったのは、橋下の弁舌が大衆に支持されているのではなく、橋下の弁舌が大衆を欺瞞しているだけだということだった。
 年末の総選挙では、橋下が率いた日本維新の会は失速したとはいうものの、それでも多くの議席を確保した。おそらく国会の場での政治的駆け引きが始まれば、日本維新の会はたちまち分裂を始めるに違いないが、一方で橋下が国政登場に向けて妄言を吐き散らす機会も増えてくるだろう。
 われわれは120年も前に書かれたこの本から、政治的詐欺師に騙されないための知恵を得なければならない。

 群集は、ただ過激な感情にのみ動かされるのであるから、その心を捉えようとする弁士は、強い断定的な言葉を大いに用いなければならない。誇張し断言し反覆すること、そして推論によって何かを証明しようと決して試みないこと、これが民衆の会合で弁士がよく用いる論法である。

 群集は弱い権力には常に反抗しようとしているが、強い権力の前では卑屈に屈服する。権力の作用か、あるいは強くあるいは弱く働く間歇的なものであるときには、常にその極端な感情のままに従う群集は、無政府状態から隷属状態へ、隷属状態から無政府状態へと交互に移行するのである。

 ある思想が教養ある人々に対しても効果を与え得る場合、それは、その正当さが論証されているからである、などと信じてはならない。極めて明白な論証でも、大多数の人々にはどんなにわずかな影響しか及ぼさないかを見れば、このことは納得できる。

 群集が、正しく推理する力を持たないために、およそ批判精神を欠き、つまり、真偽を弁別し、的確な判断をくだす能力を欠いていることは、つけ加えるまでもない。群集が受けいれる判断は、他から強いられた判断にすぎず、決して吟味を経たうえでの判断ではない。

 群集の想像力を動かす事柄はすべて、付帯的な説明から離れた切実鮮明な心象、あるは一大勝利とか、一大奇跡とか、一大犯罪とか、一大希望とかいうような、若干の奇異な事実のみを伴う心象の形で現われるのである。事柄を大雑把に示すことが肝要であって、決してその由来を示さない。

 これまで群集が、真実を渇望したことはなかった。群集は、自分らの気にいらぬ明白な事実の前では、身をかわして、むしろ誤謬でも魅力があるならば、それを神のように崇めようとする。群集に幻想を与える術を心得ている者は、容易に群集の支配者となり、群集の幻想を打破しようと試みる者は、常に群集のいけにえとなる。

 群集は、推理には影響されず、粗雑な連想しか理解しないのである。それゆえ、群集の心を動かす術を心得ている弁士は、その感情に訴えるのであって、決して理性に訴えはしないのである。合理的な論理の法則は、群集には何の作用をも及ぼさない。群集を説得するのに必要なのは、まず、群集を活気づけている感情の何であるかを理解して、自分もその感情を共にしているふうを装い、ついで、幼稚な連想によって、暗示に富んだある種の想像をかき立てて、その感情に変更を加えようと試みること、必要に応じてはあともどりもし、特に、新たに生れる感情をたえず見抜くことである。

 群集の精神を常に支配しているのは、自由への要求ではなくて、屈従への要求である。服従に対する渇望が、群集を、その支配者と名のる者へ本能的に屈服させるのだ。

 およそ推理や論証をまぬかれた無条件な断言こそ、群集の精神にある思想を沁みこませる確実な手段となる。断言は、証拠や論証を伴わない、簡潔なものであればあるほど、ますます威力を持つ。