8月5日国立文楽劇場 | 爺庵独語

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爺庵の独善的世相漫評

 このところオリンピックのフットボール中継を観るのに忙しく、かつその中継は深夜に及び寝不足甚だしく、いつの間にやら8月も半ばである。

 標題に記したように、8月5日には国立文楽劇場に文楽の夏休み特別公演の第二部を鑑賞に出かけた。7月27日に第三部の「曽根崎心中」を観たのは、橋下徹の妄言に立腹して、技芸員たちに盛大に拍手を贈りたくて急遽当日売りの切符を求めたものであったが、今回は随分以前から予定していたもので、席も5列目という絶好の位置であった。

 演し物は「摂州合邦辻」の「合邦庵室の段」、「伊勢音頭恋寝刃」の「油屋の段」「十人斬りの段」、そして「契情倭荘子」の「蝶の道行」である。

「伊勢音頭」は夏狂言の代表作、「奥庭十人斬りの段」は、この狂言が作られた天保の時代らしい爛熟した草双紙の世界を垣間見させてくれる。大昔に読んだ高須梅渓の『江戸情調と悪の賛美』を再読したくなる残逆美の世界であるが、今回の公演の目玉は爺庵にとっては「合邦」の方である。

 「摂州合邦辻」は、明治大正の政界の黒幕杉山其日庵の著書『浄瑠璃素人講釈』によれば、安永二年(1773)に二代豊竹此太夫が語ったもので、其日庵曰く「古浄瑠璃の風を語り残さんがために興行せしが始まり」であり、「概して此太夫風の物」という。

 杉山其日庵の『浄瑠璃素人講釈』は、其日庵が明治義太夫界の大立者である竹本摂津大掾や三代竹本大隅太夫、摂津大掾の相三味線であった名庭絃阿弥らから口伝された義太夫の「風」を、その著書に書き伝えたものであるが、この義太夫の「風」こそが、義太夫という芸が伝承すべき「古典的規矩」(武智鉄二)であるという。

 杉山其日庵が愛した竹本大隅太夫は、破天荒な天才であった。相三味線は二代豊澤団平という大名人で、大隅と団平による「摂州合邦辻」は、三宅周太郎の『文楽の研究』によれば、「大阪市中の人気を一身に集中していた」という。実に「合邦」は、この大隅の語りと団平の絃によって文楽の人気演目にのし上がったわけだ。

 大隅太夫はあるとき金に困って、この人気演目である「合邦」の床本を質入れしたことがあるという。質屋も豪気なもので、床本一冊に大枚千円を貸した。明治時代の千円であるから、正確な比較は無理にしても、一千万円内外にはなるだろう。床本を質入れしたからには、請出すまでは「合邦」を演じることはできないが、これほどの大金を貸すところを見ると、質屋もさしずめ大隅太夫の合邦のファンであっただろう。

 杉山其日庵の『浄瑠璃素人講釈』上下巻と、三宅周太郎の『文楽の研究』正続、いずれも岩波文庫に収録されている。文楽の正統を知る上で必読と言えよう。

 てなことは、どこかの自己愛市長には、何度言い聞かせても理解できないだろうが。