何度かブログに

書いた話を又書きたくなった。

 

 

1937年5月16日

私は 石ころだらけのこの畑あたりの

草ぶきの家で生まれた・・事を確かめる旅をした。

2008年6月22日~6月26日(関釜フェリー船内2泊)

 

 

2008,5,23

撮影者は電話や手紙沢山のお願い事を聞いてくれた

市観光課のRさん。

 

 

Rさんの先導で地元のお二人と地番地図を確認。

 

 

(解放後暫く使われた日本総督府の戸籍原票)

日本時代の戸籍票の文字が

水を含んだ筆でなぞられ 

薄くなったカタカナの上にハングル文字が書かれてある。

 

右に祖父 戸主 呉成台

父 乙奉は 祖父の死亡によって 20歳にして戸主となる

祖母と妹と弟食べさせなければならない。

 

創氏改名の痕跡が見える。

呉乙奉は 名を正玉とし

日本式の姓名「呉〇正玉」と

”改名を申請する”のゴム印が押されてある。

かつて 麻生外務大臣が

日本式の名前にしたいという「希望者の申請を受理した」までだ。

アブジは 

改名しなければ日本への「渡航証明者~警察発行」が出なかった

と言う。

 

 この時点でまでに得た戸籍原票は改正を経て4種類と

 旅の記録などは東京の『韓人歴史資料館』の寄贈しました。

 

 

R氏の案内で

668番地に行く前に立ち寄った農協前

村長の到着を待つ間の歓談で奥側に座る帽子の女性から

「あなたと同じような事を言い、 

 この辺りにあった呉家ゆかりの者だと名乗る

 若者に会った」

と言う話が出て・・倅が来ていたことを初めて知る事になった。

 感動!

 

生れた668番地は探せた。

 

 

もう一つ仕事は

我が家全員をこの町の戸籍簿に載せて貰い

その謄本を貰う事だった。

二日目の午後 全員の戸籍謄本が発行され

目的は達成された。

 

遅い汽車でプサンに向かうとほぼ満員状態。

途中下車し温泉宿を目指してタクシーに乗ったら

目的地ではないホテルに案内された。

 

”韓国語のできる日本人”と思われたようで

ホテルからのバックマージンが目的らしかった。

タクシー代を渡しながら

「やめた方が良いよ」と小声でささやいて・・

 フロントで大声を出して値切って・・寝た。

 

2008年6月25日

高架の向こうの緑の屋根は

釜山東バスターミナル

いかにも梅雨らしい雨が窓を曇らせ

人生初とも言うべきドラマチックな日々を振り返りながら

突然 朝鮮戦争勃発の日であることに気付いた。

 

こんなにも書きたくなる

慶尚南道密陽郡上南面東山里668番地は

乳飲み子だった私の記憶には無い

幼い頃の日々の全ての時期を瀬戸内の町や村で過ごしたが

歌詞のような記憶と共に思い出す土地の無い事が

書きたくなる事と重なるようにも思える。

 

15年も経って 

まだこんなことが出来る事に感謝しながら

86歳一か月。

 

今日の昼、

具材の下に冷麺

晩御飯は 次女手作り料理お呼ばれ

 

 

買い過ぎのアスパラ・2種類のおかずに

 

豚巻きアスパラ

 

魚は 焼くのも、臭いの始末も大変です。

 

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