いよいよ京都の幕末を訪ねる旅も終わりに近づきました。
最後は新選組の話題に戻り幕末京都の史跡巡りを終わりたいと思います。
京都に着いたその日に三条大橋、そして“池田屋事件”の話に触れました。
そして改めて思っているんです
あの“新選組”を一躍有名にした“池田屋事件”がなければ隊士達の運命も大きく変わったのかもしれないと。
その事件現場である“池田屋”から600m程のところに、勤王志士の後ろ盾であった古高俊太郎邸がありました。
その住居跡に下の写真の通り「説明立て札」と石碑が建立されています。
古高俊太郎の存在がどう“池田屋事件”に関係したのかについての詳細は敢えて説明しませんが、新選組に興味のある方は大体の経緯はご存知かと思います。
簡略化された内容は「説明立て札」通りです。
一般的な通説を補足すると、古高俊太郎は京都における“尊王攘夷派”の活動を秘密裏に行い、倒幕のテロ行為を裏で手引きしていた重要人物だったようです。
ただこの「説明立て札」の内容は、この人物が“善”であったのか“悪”であったのかについては触れていません。
もちろん単純に二分化出来ないのは理解していますが、騒乱をもって改革を目指していたこと自体は明らかなのでしょう。
そして、この立て札の説明の最後にこう書かれています。
“明治二十四年(1891年)、特旨を以て正五位を贈られた。”
思うに、内戦による騒乱によって樹立した明治新政府にとっては功労者という判断なのでしょう。
ちなみに同年、古高俊太郎は祭神として靖國神社に合祀されています。
尚、“池田屋事件”は新選組にとっても徳川幕府にとっても、京都の治安維持のための正義の行動だったわけです。
現実的には古高俊太郎をはじめ当時の勤王の志士はあの時点では賊軍でした。
天皇に認められていたのは徳川幕府ですから。
しかし、時代が徳川幕府から明治新政府となり、それ以降“池田屋事件”の評価自体が随分と変化し、新選組はただの人斬り集団との汚名を貼られていたようです。
特に昭和を迎えても悪役の立ち位置は相変わらずで、昭和2年に当初無声映画で人気となった“鞍馬天狗”の中でも完全に悪役でした。
しかし、翌年昭和3年に子母澤寛が“新選組始末記”を発刊、昭和4年に“新選組異聞”そして昭和6年に“新選組物語”を発刊し、やっと新選組に関する世間の見方が変化してきたようです。
そして昭和39年にあの司馬遼太郎の“燃えよ剣”、“新選組血風録”が発刊され、完全に新選組の印象が変わって行きました。
その他にも新選組には内部粛正という組織内における暗殺事件も数多くありました。
近藤勇や土方歳三が新選組という組織を理想のサムライ集団とするための内部粛正は、その思いとはウラハラに新選組を窮地に陥れることとなっていったのです。
なかでも“油小路の変”における元新選組参謀伊東甲子太郎の暗殺は、その後の新撰組の運命、そして近藤勇の人生にも大きな影響を与えた事件となってしまいました。
(近藤勇は伊藤甲子太郎が率いていた御陵衛士の残党に狙撃され大怪我を負い、その後近藤勇が流山で新政府軍に投降した際、素性が明らかになってしまったのも御陵衛士が新政府軍にいたからです。)
どの様な事件であったのかは、説明立て看板の通りです。
ちなみに新選組から離れ“御陵衛士”のリーダーとなっていた伊東甲子太郎はこうして暗殺されましたが、大正7年(1918年)に従五位を贈位され、昭和7年(1932年)4月に靖國神社に合祀されています。
個人的に疑問に思うのは、何故、国を憂い共に祖国のため戊辰戦争で戦うことになってしまった徳川側の幕臣が、靖國神社に合祀されていないのでしょうか。
実際には以下の様な働き掛けがじつはあるんです。
(※同じ様な思いを持たれている(いた)政治家や財界人も少なくありません。
元京セラの故稲盛和夫さんもそのお一人で、稲盛和夫さんは尊敬する西郷隆盛が合祀されていないことも疑問に思われていたのではないでしょうか。)
書きたいことはまだまだ尽きないのですがここでは一旦筆をおきます。
本当にいろいろと幕末の京都と新選組についてを再考する貴重な旅となりました。
改めて今回アテンドいただいたノブ先輩に感謝です。
そして新選組よ。
新選組推しの名もなきおっさんとして一言申し上げる。
私はいまも君達の志と夢に魅了され続けている。
新選組よ永遠なれ……。
【補足】
(一時期、屯所となっていた西本願寺です。
この寺は長州贔屓のお寺でやはり新選組にいい感情を持っていなかったように何故か感じました。)
(新選組は実際にはこちらの太鼓楼と北集会所を使用していた様です。)
(本願寺による新選組の説明の看板。
文面ににじみでる今でも新選組を快く思っていない感を感じるのは私だけでしょうか?)