今回の旅の大きな目的のひとつは新撰組の史跡を巡るということでした。
今日は新撰組のやはりファンであり、京都府のすぐ隣の市である滋賀県大津市在住のノブ先輩にご案内いただきました。
ノブ先輩は私の娘の義理のお父さんです。
(新撰組推し活隊長馴染みの店にて)
(京都府警職員福利厚生会取引指定業者さんです。)
じつはノブ先輩にとって新撰組は“大先輩”と言えます。
新撰組は幕末京都の治安維持に奮闘した幕府公認の警察のような組織でした。
ノブ先輩はすでに退官されておりますが、元京都府警の警察官で、剣道の腕前もすごいのです。
その様な背景もあり、私は勝手にノブ先輩のことを新撰組の“後輩”だと思っております。
一方私は、曾祖父が会津藩士だったと亡くなった父がいっておりました。
うちの親父が言うことですから疑われそうですが、嘉永4年に本駒込の菩提寺に墓を建立しており、槍や甲冑を千葉の遠い親戚に預けてあったのも小さい頃に見に行った記憶がありますので、さもありなんなのだと思っております。
また明治生まれの祖父はいっとき警察官をしていたとも言っていました。
ということは、明治維新後、警視庁の警察官を拝命していた新撰組副長助勤三番隊四番隊組長の斎藤一の“後輩”だったわけです。
ですから私が新撰組推しなのは“血”なのかもしれません。(笑)
グダグダと何が言いたいのかといいますと、幕末はそんなに大昔のことではないにも関わらず、私達は日本の近代史をあまりにも知らな過ぎなのではないかということです。
新撰組は昨年設立160年を迎えたばかりなのです。
(昨年7月に建立されたばかりの土方歳三の胸像ー壬生寺にて)
当日、まずは旧“壬生村”を訪れました。
(副長、山南敬助が隊規違反によって切腹した前川邸にて。この頃から朋輩の絆が揺るぎ始めていたのかもしれません。)
(清河八郎があっと驚く演説をおこなった新徳寺)
(壬生塚にある近藤勇の胸像)
(壬生寺御朱印)
結成2年目の1864年(元治元年)、新選組は2つの大きな事件に遭遇しました。
それが「池田屋事件」(6月)と「禁門の変(蛤御門の変)」(7月)です。
詳細は省きますが、とにかく当時の京都は治安が最悪で、尊王攘夷の過激派が500人はいたであろうとの説もあります。
要は現代風にいえばテロリストの巣窟と化していました。
そんな京都の治安維持に奔走し、天皇を守るために戦う尊王の義士でもあったのです。
それが新選組なのです。
そんな彼らは何を目指していたのでしょう。
“新撰組とはなんであったのか?”
これは新撰組をどう捉えているのかの“推し”の考え方によって大分異なって然るべきなのかもしれません。
『チーム試衛館』として強い絆で結ばれ、彼らが一番光り輝き、一途な思いで何かに向かっていたのが、壬生村での3年間だったのだろうと改めて感じました。
晩年、都落ちした新撰組の生き残り隊士の1人、二番隊組長永倉新八は江戸で近藤勇と再会しました。
しかし、喧嘩別れしてしまいます。(※永倉新八著“新撰組顛末記”より)
永倉はいつまでも近藤を『チーム試衛館』のマブダチと思い続け、近藤は試衛館の朋輩を自分の家臣だと位置付けるようになっていました。
時勢は人の心を変えていくと言うことなのでしょうか。
ーつづくー