鳥羽と伏見。
日本の歴史を変えたこの場所を初めて訪れてみました。
ここは日本の近代史として日本人がもっと真実を知らなくてはならない「戊辰戦争」が始まってしまった“鳥羽伏見の戦い”の激戦地です。
1868年(慶應4年)1月のことでした。
(この小枝橋での旧幕府と新政府の戦いが始まりました。)
(現在の鳥羽街道の小枝橋)
この年に元号が明治に変わった年でもありますので、まさに日本のターニングポイントの年でもありました。
何故、“鳥羽伏見の戦い”は起こってしまったのか。
その理由には諸説あります。
なので、ここで書かせていただく内容は、様々な説を自分なりに解釈し、改めて本を読んで考えた私的なひとり言のようなものです。
その点はご容赦していただければと思います。
さて、この“鳥羽伏見の戦い”から遡ること1年前、すでに将軍徳川慶喜は“大政奉還”を終えていました。
ですから、徳川幕府は終焉を迎えることを決め、朝廷にその政権を返上することとなっていたのです。
今後は朝廷の元、新しい日本の国体をどうするかを平和裡に進めていくことが、国民にとって1番好ましい新政府の姿だったわけです。
しかし、どうしても武力による倒幕を推し進めたい藩、人物がいたわけです。
それが薩摩藩であり長州藩でした。
(薩摩藩が陣を構えた城南宮)
その新政府樹立を藩の理屈で優位に進めたい好戦的な人物のひとりが、薩摩藩の西郷隆盛でした。
この西郷隆盛という人物がどうもよく分からない。
“敬天愛人”を座右の銘としていた英傑西郷の本当の姿とはどうであったのか。
その後の西南戦争(明治10年)の挙兵の理由も含めて私には謎なのです。
今回、改めて幕末から明治維新についてを勉強しつつ“鳥羽伏見の戦い”に思いを馳せてみると、様々な矛盾を感じました。
それは武力による倒幕に関しての大義が既になくなっていたということです。
ですから、旧幕府が大阪から京都へ上洛し薩摩藩の不条理な狼藉を朝廷に直訴したい心情には一定の道理はあると思えてなりません。
実際に江戸は薩摩藩による幕府に対する挑発行為により、不穏な空気に包まれていたわけです。
そして、まんまと薩摩藩の挑発に乗ってしまい庄内藩の“新徴組”らが「江戸薩摩藩邸の焼討事件」を起こしてしまい、薩摩藩に倒幕の理由を与えてしまったに等しくなってしまいました。
このように起こすべきでない内戦(戊辰戦争)を“薩長同盟”は引き起こしてしまったというのが、最近の新しい通説として話題になっているのです。
もう“鳥羽伏見の戦い”時点に於いては、薩長に攘夷という概念はなく、尊王攘夷(新政府)vs佐幕開国というそもそもの概念の衝突はなくなっていたのです。
徳川慶喜は政権を朝廷に返上していたのですから幕府はないも同然であるし、徳川家は尊王であったわけですし、日本人はほぼあまねく尊王だったわけです。
あの戊辰戦争は旧幕府も新政府も欧州列強から新兵器を購入しての戦だったわけですから日本はすでに“開国”状態にあったわけです。
新政府も旧幕府も、お互い事実上“尊王開国”に大きく舵を切っていたわけですから、日本人同士が殺し合う無益な戦争だったわけです。
(新撰組は伏見奉行にこの時は移ってきていました。)
(“鳥羽伏見の戦い”で新撰組は副長土方歳三が指揮をとりました。)
(薩摩藩はこちらの高台から伏見奉行所を砲撃しました。その中心人物が後の陸軍初代大臣あの大山巌でした。)
単純明解に言ってしまえば、喜んだのは欧州列強の“武器商人”だけでした。
戦争は金になる。
これは現在も変わらない戦争の負のロジックなのです。
アメリカも南北戦争で使用した中古の兵器類をバーゲンセールの如きに日本に売り込めウハウハだったことでしょう。
欧州列強は内戦については建前として“局外中立”といいつつも、イギリスの商人は新政府に、フランスの商人は旧幕府に武器・弾薬を売り込み大儲けしました。
貿易商人?の坂本龍馬がこのとき存命であれば、この状況をどのよう感じたことでしょう。
改めて歴史に真摯に向き合ってみると、明治新政府樹立を美談としててきたことに無理があると私は思えてなりません。
勝海舟の著書に『氷川清話』という本(オーラルヒストリー)があります。
勝海舟は幕末から明治維新にかけて特別な偉才(異才)を放った幕臣として私は大変興味があります。
この本の中にいくつか興味深い記述があります。
ひとつは、結局“戊辰戦争”が蝦夷(北海道)までもつれたことに関してこう言っています。
「幕府の軍艦が、箱館へ脱走した時にも、おれは棄てておけば、彼らは軍費に窮して、直に降参するだろうといったけど、朝議は聴かないで、これを征討したものだから、あの通り沢山の生命と費用とを、いたずらに消耗してしまった。-後略」
箱館(函館)の町で繰り広げられた戦いには、あの新撰組副長土方歳三も旧幕府の幕臣として参戦し散っていきました。
歴史にもしもは禁物ですが、勝海舟も言っていたこの言葉に新政府が耳を傾けていれば、土方歳三にも違う人生があったのかもしれません。
ちなみに勝海舟と土方歳三は生前会ったことがあるとのこと。
そのエピソードは長くなるのでここでは触れません。
それと勝は晩年、こんな唄を詠んでいます。
“藩閥の末路”
長門人 薩摩隼人のこの頃や
わが末の世にかはらざりけり
個人的に意訳すると
“長州と薩摩のこの頃のやり方を見てると、オレが幕臣だった頃の徳川と大して変わらねぇな”
と痛烈に揶揄していたようです。
とくに明治30年頃、日本の初代内閣総理大臣で長く政権の中心人物となった元長州藩藩士の伊藤博文を痛烈に批判しています。
詳しくは写真参照ですが、抜粋しご紹介します。
「あれらに分かるかしらん。自分で豪傑がるのは、実に見られないよ。伊藤もまた外国へ出掛けたさうな、いつまでも己惚れりゃ強いのう。」
“鳥羽伏見の戦い”から30年の月日が流れた頃の勝海舟の独り言ともいえますが、勝は長きに渡り国を治めてきた徳川幕府を改めて評価していたようです。
こうも言っています。
「政治家も理屈ばかり言ふやうになってはいけない。徳川家康公は、理屈はいはなかったが、それでも三百年つづいたよ。それに今の内閣は、僅か三十年の間に幾度代わったやら。」
江戸時代の方が日本人らしい民度の高い統治をしていて、おおらかな国柄で良かったように感じるのは私の偏見なのでしょうか。