自宅を出発してから3日目。
いよいよ木曽街道、中津川を経由し、岐阜県、滋賀県を走り抜け、中山道の終着点、京都の“三条大橋”に辿り着きました。
(これは祇園側の橋のたもとからのアングルです。)
(対岸が先斗町界隈です。)
鴨川に架かる橋では四条も五条も有名ですが、三条大橋は“新選組”とは切っても切れない因縁めいたものを感じます。
まずはゆかりあるこの橋を訪ねてみました。
鴨川のすぐ西側には高瀬川という川がありそこには“三条小橋”という橋が架かっているのです。
(昭和初めの三条通りを西方面を三条小橋より眺める。)
この三条小橋の西側直ぐ奥に一躍“新選組”を有名にした“池田屋事件”の池田屋がありました。
いまはこちらの居酒屋チェーン店になっていますが、1960年頃まで現存していたという記録もあります。
だとしたら、なんとか保存しておくという気運に当時ならなかったものか大変に残念です。
一方、鴨川に架かる“三条大橋”ですが、その橋の擬宝珠には池田屋事件の際についた刀傷が残っています。
“新選組”が京の都で活躍していたのは、ほんの160年前の近代の話です。
それも僅か6年程度の長さです。
しかしながら、強烈な印象を与え消え去ったサムライ集団。
サムライの時代の終焉間際にパッと咲いて散っていった花火のような存在でした。
そのリーダーであった近藤勇は、この三条大橋の河原に、最後は晒し首となって戻ってきました。
(国立国会図書館写真より)
たしかに、毀誉褒貶いろいろと言われた“新選組”でしたが、京都の治安を護ることに孤軍奮闘していたのは間違いありません。
“池田屋事件”での活躍の際は、朝廷からも隊士慰労の思召を賜ったほどです。
しかし、近藤勇の晒し首を掲げたという新政府の所業は、武士道(人の道)に反する蛮行としか思わざるを得ません。
近藤勇はあの複雑な時代背景の中で、罪人のような扱いを受け、晒し首にされるような幕臣だったのでしょうか?
私は特定の人間が企てた私怨でしかないと思えてなりません。
思うに新政府の慶応から明治にかけての一連の行動は、日本人として著しく“美しさ”に欠けていました。
四方山話はこれくらいにしておきます。
さぁ明日からはいよいよ念願の“京都幕末新選組聖地巡礼”です。
大いに学び感じてきたいと思います。