新型コロナ禍もあり、パスポートの期限が切れたままになっていましたので申請に行きました。



申請のための必要書類ということで“戸籍謄本”を役所に請求し、久しぶりに“戸籍謄本”を手にしました。



その記載事項に“従前戸籍”という項目があります。


“従前戸籍”とは通常、自身が結婚し新しい戸籍を作る前の、両親の戸籍のことを指します。


ですから日本的に言うと直系の父親の代々の戸籍が私の知る限りにおける自分のルーツ(起源)となります。

私の場合、祖父まで辿るとまた違う戸籍になっているかもしれませんが、それ以前は戸籍という制度がない時代にまで遡りそうです。


現在は法律上明治19年以前の戸籍は人権問題もあり閲覧できないようです。


そもそも戸籍制度がなかった時代は寺の過去帳がその役目を担っていたそうです。


今回請求した戸籍謄本には“従前戸籍”として「新宿区神楽坂●丁目●●番地”」に戸籍を持っていた宮崎●●●の“三男”として、私は誕生したと記されています。


父は遡ること1919年の大正8年に現在の新宿区の神楽坂で生まれました。

大正、昭和初期の神楽坂は、「東京六花街」のうちの一つとして大変に栄え”山の手銀座”と言われていたようです。


(ネットより拝借)


その神楽坂の従前戸籍の場所には縁もゆかりもない方の、小振りなビルが神楽坂仲通りに面して建っているだけです。

すでに神楽坂との縁(ゆかり)は途絶えて久しいですが、その神楽坂から5km程の本駒込にいまも私の家の菩提寺は存在します。


そしてそこには2つの墓標が建之されています。



手前の古い小さな墓標には嘉永年間の元号が彫られていますので江戸時代のものと思われます。


ですから遡ること約170年前に私の祖先はこの地で幕末維新を生き抜いてきたということになります。


そして、時は流れもうひとつ少し大きな墓標には祖父であった”識”が“東京酒類仲買商組合員一同”からの祠堂金を賜り、明治32年に建之したと側面に彫られています。


(当時の総理大臣は伊藤博文。最後の将軍、徳川慶喜も新選組の永倉新八も斉藤一もまだ存命の時代です。)


明治時代に建之されたこの墓標も今年で125年の歴史を歩んできたことになります。


墓石の正面には明治31年の日付で4人の戒名が彫られています。




父から聞いた話の記憶では、実家は神楽坂で商いを営んでいたとのことです。

想像するに神楽坂の花街で酒に纏わる商売をしていて裕福な家だったようでした。


その祖父が個人として建之した墓標には、現代のような”○○家”ではなく“○○氏”と彫られています。

この墓標は推測するに、祖父の両親と幼くして亡くなった兄弟2人のための墓標ではないでしょうか。


元々の古い墓標(嘉永年間)の方にも苗字が彫られていますので、苗字が許されていた家柄のようです。


父は千葉県の鋸南町の親類の家に我が家の槍や鎧を預けていました。


物心ついたときにこの親類のところに一度だけ泊まり掛けでお邪魔したことがあります。


父曰く宮崎家は会津藩の末裔であると言っていたと兄は言っていました。


どちらにしても“従前戸籍”は戸籍に残っている記録だけのものです。


そして菩提寺の過去帳も昭和20年の東京大空襲で焼けてしまいもう存在しませんので、詳しいことは分かりません。


(ネットより拝借)


軍人として満州で終戦を迎え、そのままシベリアに抑留されていた父が復員したのは昭和22年頃のようです。


母と世帯を持ったのは神楽坂ではなく墨田区向島でした。


姉と2人の兄は向島で生まれています。

父はよく

「寺島に住んでいた。」

と言っていましたから戦前から寺島(向島)に住んでいたのかもしれません。(※寺島という町名は昭和12年頃に町名変更となり向島となっています。)


そして、どのような経緯を辿ったのかは分かりませんが、向島から荒川の橋を越え足立区本木町に住まいを移したようです。


父が昭和30年代に働いていて隅田川沿いのベニア工場群は今はすでにありません。


(父が勤めていた会社の慰安旅行での私と父ー長瀞にてー)


つらつらと書き綴ってしまいましたが、もう遠い古(いにしえ)の根拠の乏しい話です。

ただ、”戸籍謄本”をながめながらこんなことを考えているのも、ご先祖様の供養になるのかもしれません。