本考察はネタバレを含みます、 というより、読者が結末を知っていることを前提します。

 

前々回:『サイレントヒルf』が雛子の明晰夢の世界だったら…?という視点での考察 

前回: 『サイレントヒルf』を超常現象ぬきに解釈・考察してみると…?純粋にサイコロジカルホラーだった

 

今回は、前々回、前回より、さらにもう一段深いレベルに降りていく内容となっております。本格的によくわからない内容になるので、それでもいいよって方だけ読んでください。

 

 

さて、さっそく本題に入りたいところなんだけど、どう切り出せばいいか難しい。なので、まずは「静寂の戎が丘」の最後のシーンを思い浮かべていただきたい。あれが修が意図した(内省としての)明晰夢の世界だと筆者は思ってるんだけど、町は水浸しになってる。なぜそうなっているかはここでは置いておいて(それについては前回の記事の最後でちょっと触れた)、仮に水浸しになっていなかった場合、つまり雛子が町に入れる状況を考えてみてください。

 

雛子が「私たちだけの戎が丘」って言ってるのは、町に誰もいないし、町に入れなくなっているからだが、もし入れたとすると…? 駄菓子屋には修がいて、咲子がいて、凛子がいると思うんですよね。悲劇は繰り返さないとしても、夢の世界だから、普通に記憶と戯れたりはできる(まあ雛子はそのつもりがないから、水浸しの「まま」にしちゃってると思うんだけど)。

 

夢(とくに明晰夢)の世界での出来事とか経験って、何が起きても取り返しがつくっていう特徴がある。人間ってしばしば、取り返しのつかない状況になって、初めて後悔して、気づいて、でも気づいたときにはもう遅すぎて。こういうのは、現実では本当に取り返しがつかない、時間は巻き戻せないんだけど、夢の中ではできる。だから、筆者が思うに、明晰夢の世界というのは、ループ構造を持ってやり直すのに打ってつけの世界だったりするわけだ※。

 

※本来、精神世界に時間という概念はない。ところが、精神世界に「もう一つの現実」という地位を与えてしまうと、もう一つの時間軸が生じ、そこに深刻な問題がいくつも発生する。ここではその解決は意図しないため、これ以上議論に首は突っ込まない。

 

『サイレントヒルf』という作品は、もともと純粋なサイコロジカルホラーとして(原型が)形作られたものが、創作の過程で(作者の意図かどうかはわからないが)ファンタジーに移行したものだと実は筆者は考えている。つまり、雛子の心的葛藤に焦点をあてた心理描写(精神世界とはいわゆる心象風景そのものであり、それは心理描写の一種である)のベースの上に、「妖怪バトル」が乗っかっている二重構造をなしている。さらに言えば、妖怪というメタファーを取り払うと、雛子という人間を真っ二つに引き裂くのは、修と寿幸という二人の男だと言うことができる(「恋愛バトル」とでも言うべきか)。

 

雛子としては、もうどうしたらいいかわからない。だから、「体を真っ二つに引き裂いて」、現実にはそんなことは不可能だけれども、いや不可能だからこそ、夢の中では可能であることをしようとするわけだ。これが、「狐の嫁入りルート」と「狐その尾を濡らす」ルートが存在する理由だ。

 

この対称は非常にわかりやすいが、理解が難しいのは、デフォルトエンドと真エンドの対比のほうである。筆者の考えでは、ここで生じている「争い」というのは、正確に言えば(作品の登場人物としての)雛子の問題ではなくて、悲劇と大団円という方向の異なるベクトル間の争いなのである。これが、『サイレントヒルf』という作品を実は真っ二つに引き裂いていて、実際ネットとかで感想を読むと、最初の「デフォルトエンド」(悲劇)をトゥルーエンドとする人と、いわゆる真エンド(まあそこそこの大団円)をトゥルーとするかで意見が分かれている。

 

筆者の意見では、たぶん芸術として見た場合には、悲劇のほうが価値が高い(ように見える)のだと思う。なぜかというと、作品内にある手掛かりから見て判断するに、雛子の現実の時間軸はほぼ結婚式まぎわであり、これはもう十分引き返すことが(本当は)できない状況まで来てしまっているからだ。つまり、明晰夢の世界でシミュレート(ループ)して、熟考してそれを現実の判断に反映できる状況に現実の雛子はいないように思われる。本当はもっと早い段階で、十分に悩んで結論を下すのがよかったが、そうなっていない。

 

なぜか。そこに理由は存在しない。あえて言えば、作者がそのようにしたからだ。なので、雛子の運命をもてあそんでいるのは、本当は作者なのである。言うに事欠いて何をと思われるかもしれないが、作中で筆者が印象に残ったセリフに、「運命は自分で選ぶ」という雛子のことばがある(「静寂の戎が丘」ルートで終盤、白無垢に殺害される際)。これは、実は変なセリフだ。これを聞いたとき、筆者は、九尾の狐と九十九神のさらに背後に、本当の黒幕として、作者・竜騎士07氏の「影」を見たような気がしたのである※。

 

※ある考察動画のコメントに、深水家にいた目玉でこちらをじっと見てくる巨大なこけしは「今回の争いを、ただ見ているだけ」の神の暗喩ではないかという意見があった。メタ視点では、あの目玉は、本来は作品の中にはいてはいけない存在、作者である。彼は、迷宮の最深部に潜み、ここまでたどり着いた雛子を(さらに言えばその奥にいるプレイヤーを)じっと見つめている…。

 

これがより具体的に言ってどういうことかは、厄介な創作論上の議論になるため、詳細は割愛するが、おそらく重要なのは、作中で「神」(実際には神というより、妖怪じみているが、人間の運命をもてあそぶ程度の能力はある存在)を「殺す」ことは、作中の登場人物(ここでは主人公・雛子)を、作品という枠から「解放」する意味があるのだと思う。作家のプロットの影響下にあるかぎり、実は登場人物には一切自由がなくて、あるのは自由に見せかけた何かだが、主人公が「作家殺し」を行うことで、真の自由を作品内で勝ち得ているという見方ができるのである※。

 

※こうなると、作家はもう雛子の「これから」を描くことはできない。作品という呪縛から解放されたからだ。雛子は作家の手の中からも巣立ってしまうのである。だから、雛子の将来はまったくの「白紙」と描かれている(つまり何も描かれていない)と見ることもできる。

 

まあ、考えすぎだと言われたらそれまでなんだけど、自分で小説を書く人はわかると思うが、ひどい展開になったとき、心に何かが溜まるのだ。それは登場人物(作家からすれば自分が生み出した我が子)への申し訳なさだったり、「罪深い」行いをする作家としての自責だったりする。「お前達のおもちゃにはもう…… ならないぞ!」

 

その表出の仕方は人さまざまだけど、筆者は『サイレントヒルf』ではこういう形になったのかなと推測する次第です。わけわからんこと言って、大変失礼しました。(了)