難易度★★★★☆

「Hello, Again ~昔からある場所~」は、1995年8月にリリースされたMY LITTLE LOVERの3枚目のシングル。90年代J-POP最高傑作の一つ。


$90年代J-POPの世界へいざなおう!


サビの転調が印象的な、独特の幻想的な雰囲気をもつこの曲は、MY LITTLE LOVERのシングルとしては最大のヒットを記録(184.9万枚)。90年代J-POPを象徴する名曲としてしばしばその名前が挙げられるほど、多くの人から愛され続けている名曲です。

曲は藤井謙二と小林武史の共作。歌詞は当初、小林武史とボーカルのAkkoの共作とされていましたが、後に小林の単独名義に変更されました(当初は"Kenji Akko Takeshi Ensemble"を意味するKATEというクレジットが用いられていましたが、実際にはAkkoは作詞には関与していません。この辺の事情と歌詞との関係についても、後で考察することにします)。これは余談ですが、音楽プロデューサーとしての小林は当時のJ-POP界において小室と並ぶヒットメーカーであり、両者の共通のイニシャルをとって「TK時代」と呼ばれる一時代を築きました。

さて、前置きはこれくらいにして、歌詞の内容の解説に移りたいと思います。
この曲の歌詞はどちらかといえばやや難解な部類に入ります。歌詞のテーマ自体は比較的明瞭なのですが、歌詞の内容を一語一語きちんと理解していくということになると、決して容易ではありません。

まずは、この曲の主題から簡単に説明します。最初に言わなければならいのは、この曲もやはり「恋愛」を第一のテーマとするものではないということです。この曲の大きなテーマは、副題の「昔からある場所」という表現から容易に想像されるように、「故郷」です。このように言うと『え?それだけじゃないんじゃないの?』と疑問を感じる方もいると思いますが、それについては以下の解説の中で徐々に明らかにしていくことができればと思います。

加えて、結論的なことをいくつかあらかじめ述べておきます。
歌詞の全体を検討することから初めて明らかになることですが、この歌詞の主人公は、おそらく10代後半から20代前半の男性と考えられます。彼はおそらく生まれ育った故郷から遠く離れた都会で、自分の夢に向かって懸命に活動しているのでしょう。この歌詞は、作詞者である小林が自分の若い時を振り返って書いた詩であると考えてほぼ間違いないと思います。

ただし、歌詞の中では、主人公の人物像はあえて不明確にされているように見えます。作詞者がなぜそうしたのかと言うと、ひとつには、この曲を歌うのが女性ボーカルであるということ、さらには、おそらくは主人公の性をあえてぼかすことによって、男性にも女性にも共感できるような配慮を施したのでしょう。

それでは歌詞の細かい解説に移ります。


  いつも 君と 待ち続けた 季節は
  何も言わず 通り過ぎた
  雨はこの街に 降り注ぐ
  少しの リグレットと罪を 包み込んで


主人公は今では故郷を離れて生活しています(「街」という表現が出てくることに注意して下さい)。故郷で「いつも待ち続けた季節」というのは、おそらく「春」を指していると思います。もちろん、どの季節を好むかはその人によってまちまちでしょうが、山形県出身である小林にとって、春は特に待ち遠しい季節だったのではないでしょうか。都会で生まれ育った人にはピンとこないかもしれませんが、雪国やヨーロッパなどの寒い地方、なかでも特に自然の多い地域において、春の訪れは、雪が解け、緑が芽吹く劇的な変化を見せます。しかし、アスファルトやビルで囲まれた都会では、春の訪れは必ずしもそうした目に見える変化を見せません。春が「何も言わずに通り過ぎてしまった」みたいに感じられてしまいます。

ところで、上の歌詞に出てくる「君」という表現は具体的にどのような人物を指しているのでしょうか。恋人でしょうか、それとも親しい友人や幼馴染でしょうか。ここでもやはり、「君」という表現は、主人公にとって親密な人を漠然と意味する表現と解釈せざるを得ないのが実情です。このことに苦情を言う意図は私にはありません。一般的に言って、優れた詩がもつ特徴のひとつは、それを読む人によってさまざまな相貌を帯びるような普遍的な意味を備えていることだと私は考えます。小林には彼自身が「君」という表現で思い浮かべる特定の誰かがいたのかもしれません(例えば彼の恋人や幼馴染、あるいはもしかしたら母親など)。しかし、その特定の誰かが重要な意味を持つのは小林本人に対してだけです。それゆえ、ここではあえて「君」の指示対象を意図的に不明瞭にすることによって、より多くの人にとっても歌詞が追体験できるように配慮したのだと考えられるのです。

場面の説明に戻りましょう。春が過ぎ、「雨」が都会の街に降り注いでいます。「少しの後悔と罪を包み込んで」と歌っているところから、都会のアスファルトに打ち付ける「雨」とは、故郷を離れ、親密な人と別れた主人公が無意識のうちに押し殺している「心の涙」を、都会の「雨」という情景に投影したものだと解釈されます。


  泣かないことを 誓ったまま 時は過ぎ
  痛む心に 気が付かずに 僕は一人になった


主人公は自分の夢を叶えるために都会に出てきたわけですが、これは自ら望んで決断したうえでのことですから、もし都会で孤独に陥り人間関係に悩むようなことがあっても、決して弱音を吐いたり後悔したりはしないと、そう心に固く決めていたことでしょう。しかし、そのような決意とは裏腹に、押し殺された故郷への思いは知らないうちに徐々に心の隅に蓄積していきます。そうして、ある時ふと『ここは自分の居場所ではない』という違和感に駆られ、孤独な自分を発見するのです。

だからといって故郷に今すぐ飛んで帰るわけにもいきません。自分の夢を叶えるためにはどうしても都会で活動しなければならない理由があるからです。葛藤の中で、主人公は心の慰めを故郷の記憶の中に得ようとします。もしかしたら、それは故郷に残してきた、あるいは故郷を旅立つときに別れた恋人との思い出なのかもしれません。


  「記憶の中で ずっと二人は 生きて行ける」
  君の声が 今も胸に響くよ それは愛が彷徨う影
  君は少し泣いた? あの時見えなかった


最初の二行の美しい詩句についてはコメントはあえて控えさせていただきます。
三行目の「あの時見えなかった」涙とは、故郷から笑顔で送り出してくれた人が実は心では泣いていたことを主人公が気づく場面ともとれますし、「その時は分からなかった」相手の気持ちが一人になることでようやく理解できるようになったと歌っているとも読めます。


  自分の限界が どこまでかを 知るために
  僕は生きてる訳じゃない


自分の大きな夢を追って生きている人は、多かれ少なかれ常に、自分には本当に夢を実現できるだけの才能があるのだろうかと葛藤しつつ生きています。その緊張と辛さは、ただ敷かれたレールの上を走るだけの人生を送ってきた人には一生理解できないことでしょう。

果たして人は、夢がダメになるとき、その引き際をどこに見定めるのでしょうか。大手を振って故郷を後にしたのですから、そうおめおめとは故郷には帰れません。『自分は所詮その程度の人間だったのだ』と潔く身を引くことができるような人間は、実際のところほとんど存在しないでしょう。大部分の人間はむしろ、夢がついえようとするとき、『自分はここまでやったのだ』と虚しく妥協点を探し求めようとするでしょう。しかし、いずれにせよ人は引き際を知るために夢に挑戦したわけではなかったのです。


  だけど 新しい扉を開け 海に出れば
  波の彼方に ちゃんと“果て”を感じられる


夢を追い求める人にとって、人生とはどのように舵を取ってよいのか分からない航海のようなものです。夢を追う多くの人(特にミュージシャンという職業を志す者)の大部分は、自分の進むべき道がわからず、目標を見失って、終いには力尽き、海底へと沈んでいってしまいます。しかし、主人公はまだ自分をあきらめていません。自分を信じることができる強さが彼にはあるのです。彼には、波の彼方に航海の「果て」が、自分の夢のゴールがしっかりと感じられるのです。そうして、夢を実現した暁には「故郷に錦を飾る」ことができるでしょう。

してみると、「果て」とは、夢の実現というゴールを意味すると同時に、おめおめと逃げ帰るのではなく晴れやかな顔で手を振っていつかは帰ることのできるような遠く離れた「故郷」をも意味しているのではないでしょうか。この曲の歌詞の中で最も美しい部分のひとつである次の詩句では、自分を疑わず、何ものにも縛られず、たくましく夢に向かって突き進む人間の姿勢がみごとに表現されています。


  僕は この手伸ばして 空に進み 風を受けて
  生きて行こう どこかでまためぐるよ 遠い昔からある場所
  夜の間でさえ 季節は変わって行く


「夜の間でさえ 季節は変わって行く」という後半の幻想的な歌詞では、『故郷の風景は今は遠く離れていて見えないけれども、そこではきっと今も季節が豊かに変化しているのだろう』という、決して後ろ向きではない故郷への思いが歌われていると思います。そうして、気づけばいつの間にか心の迷いは消え去っていたのです。


  雨は やがて あがっていた


以上で歌詞の解説を終わります。
この曲は歌詞もメロディーも非常に完成度が高い作品ですが、それにも増してこの曲が人々の興味をひきつけてやまないのには、ボーカルの魅力に負うところが大きいと私は思います。

MY LITTLE LOVERのボーカルのakkoは、おそらく今後彼女のような歌手はもう出ないだろうと思われるほどの独特の魅力を持った歌い手でしょう。確かに、彼女は他の歌手と比べてそれほどテクニックがあるわけでもないし、声域も驚くほど広くはありません。しかし、このように言ったからといって、彼女をけなしたことにはならないでしょう。彼女の歌声の魅力は、歌唱術や音域の広さといった、ある程度まで訓練でどうにかなるようなものを超えたところにあると私は思います。

 

当時のライブ映像です。“荒削りのダイヤモンド”とでも言えば当たっているでしょうか。



最近のライブ映像です。時代の流れを感じさせます。

おそらく90年代J-POPは永遠に私たちの帰るべき「故郷」であり続けるでしょう。