本考察はネタバレを含みます。さらに言えば、従来の(オーソドックスな?)解釈を知っているほうが楽しめるので、ゲームでエンディングを全部見て「よっしゃ考察読むの解禁や!」って人は、最初に読むべき記事ではないかもしれません。どちらかというと、従来の解釈では満足できない人向けの記事です。

 

また、筆者のこれまでの(前回前々回前々前回)の記事にも増して、とくに寿幸に関するトピックは、イマジナリーを本格的に破壊しにくるので、寿幸の推し活を楽しみたい方は、読まずにスルーするほうが無難かもしれません。

 

全体として、従来の考察で抜け落ちていると思われる点や、それはちがうやろと筆者が思うことを指摘する場となっております。

 

 

1. 「寿幸の人間としての人格は存在するのか?」

 

この問いは、おそらく多くの『サイレントヒルf(以下、『f』と略記)』のファンにとって興味深い問いであるにもかかわらず、これまで真剣に問われた形跡がほとんどない。その理由は、多くの人が、「人間寿幸」(寿幸の人間としての人格)と「狐寿幸」(狐としての人格)は不可分である――ほとんど同化・融合してしまっていて切り離せない――と見ているからである。

 

しかしながら、筆者の考えでは、「人間寿幸」の人格は、かれの生い立ちを考えれば自然と想像がつくものであり、それは、雛子への異常なまでの執着といった、寿幸の(冷静に考えれば、不可解な)言動・態度を説明するものである。それは、寿幸という人間の心の闇に関わる。なぜこの点について、立ち入った考察を行う人が一人もいないのか、素朴にわからない。

 

ただし、いきなりその点に踏み込むとわかりにくいから、必要な準備作業として、まずは、従来の解釈では正直うまくいっていないように思われる点から説明を始めることにする。それは、「神隠し」に関することである。

 

もし、狐としての人格とは別に寿幸という人物が(良家の跡取りとして)存在する場合、雛子を人間世界の流儀に従って嫁入りさせることには、何ら不思議な点はない。しかし、もし「神隠し」として雛子を娶ってしまう場合、現実世界において、雛子と寿幸の関係が具体的にどのような状態になるのか、まったく明らかでない。寿幸は――人間として――『f』の現実世界に実在する人物でもある。仮に雛子が「神隠し」にあったとすれば、雛子は失踪する(現実世界からいなくなる)わけであるから、現実世界では寿幸は雛子と結婚したことにはならない。つまり未婚のままであることになる。

 

もっと一般的に言うと、みんな何となく「寿幸との結婚」=「狐の嫁入り」と捉えているふしがあるが、現実世界でそれが具体的にどういう生活状態を意味するのか、実はよくわからないのである※。

 

※それは表世界と裏世界とを行き来するような二重生活を意味するのか? 裏世界にいるあいだは、表世界からは消えて「失踪した」ような状態になるのか? いずれにせよ「神隠し」というのは、裏世界への一方的な拉致・監禁と同義になるだろう。それでどうやって現実の「常喜家」は維持されるのか? 「神隠し」という仕方では、現実で跡取りを産むことはできないように思われる(次のポストを参照:https://x.com/can25orp/status/1994019007436103843/。「神隠し」の疑問点については、次の優れた考察も参照:サイレントヒルf 考察・感想|夢女子が語る寿幸とエンド解釈(10/4追記あり))。これらは、「狐憑き」や「裏世界(冥府)」といったオカルトを、すべて真に受けた場合の話であるが。

 

狐寿幸と人間寿幸の人格が、ほとんど融合したものとして捉えられている結果、それに伴って、狐寿幸の住む「闇の社殿」と、人間寿幸の住む「常義神宮」との区別も曖昧になってしまっているのである。筆者の考えでは、このような見方は、現実と精神世界――現実と妄想――を適切に区別し損なっている可能性が高く、言い換えれば、寿幸という人物から妖怪というメタファー(狐という面)を取り払うことに失敗しているのである。

 

その原因は、人間寿幸に、七尾の狐が憑依して、さらにこれを九尾の狐が操作するというように、「寿幸」は非常に複雑な精神構造となっていること。それゆえ、人間寿幸の人格(もっとより正確に言えば、心)は「狐面」の奥に押し隠されて、ほとんど見えなくなってしまっていること。加えて、物語を理解する上では、必ずしも人間寿幸に焦点を当てる必要がなく、だから、ゲーム内ではプレイヤーに洞察を促すような仕掛けがまったく配置されていないこと、などが挙げられる。

 

しかし、筆者の考えでは、人間寿幸の人格というものは、確実にある。なぜそう言い切れるかというと、寿幸はキツネに襲われたときに、意識を失っておらず、「僕は寿幸って言います」と名乗り、「君は……?」と雛子に問いかけている。このときの寿幸は狐に憑依されておらず、またこのときの寿幸と現在の寿幸の人格が地続きであるとすれば、それとは別に「狐寿幸」という別人格を仮定する必要はまったくない※。

 

※その証拠に、人間寿幸と狐寿幸の人格は切り離せないと多くの人が言う。それはつまり、「寿幸」の中に誰も二つの人格を見分けていないということなのである。狐に憑依されているかどうかは、まったく重要ではない。わたしたちが勝手に形式上二つの人格を設定するだけで、憑依されていようがいまいが、内容上は最初から一つの人格なのである(先走っていえば、ただ狐という「仮面」をつけて、その内なる心を見せないようにしているに過ぎない)。

 

このことを理解するためには、狐というメタファーを取り払う必要がある。寿幸は、雛子に「君に命を救われ 魂を奪われた」と言う。それがゆえに、雛子に生涯をかけて恋をしたと。この発言の意味は、「狐憑き」という文脈では、(文字通りの意味で)命を救われたという意味に聞こえるが、まったくそうではない。小説版の表現を引用すれば、「あれほどの温かな情をかけられたことは終(つい)ぞない」(p. 170)※。これがどういう意味かを考えれば、答えは自然と見えてくる。

 

※その前後を引用すると、「あの日、一人の少女に救われた。…あれほどの温かな情をかけられたことは終(つい)ぞない。…あの時、男にとってその少女は特別な存在となったのだ」。

 

寿幸には、雛子とは別のトラウマがある。それは、かれの母親に関するものである。寿幸はまともに母の愛情を知らずに育った人物なのである。その原因を作ったのは、やはり寿幸の父親であって、寿幸の母は、自分を捨てた男のことを心底憎んでいたのであろう。もしかすると、寿幸の母は、自分を捨てた男の「面影」を息子である寿幸に重ねて、冷たく接してしまったのかもしれない。それゆえ、寿幸には温かい母の愛情の記憶がまったくないのである。

 

だから、ちょっと優しく接してもらっただけで、雛子に恋をしてしまったのである。それも、人生のすべてを捧げるような恋を※。いや、それは恋と呼べる感情なのか? 雛子に対して、無意識に「母の愛」を求めているのだとすれば…。それは通常の恋愛感情とは異なる感情だと言わなければならない。

 

※雛子からすれば、ちょっと助けてあげて短い時間一緒にいただけなのに、なぜこれほど自分に惚れ込んで執着しているか、わからず、ただ当惑するしかない。その「なぜ?」に対する、雛子の空想の中での解答が「狐憑き」なのである。『あのとき、私に命を助けられた狐が寿幸さんに憑依して、だから……』

 

また、それゆえに寿幸には、雛子と恋愛を経て結婚するという発想がない。それは、あの時代には普通だと思われるかもしれないが、本当に雛子のためを思っているなら、雛子にとって著しい苦痛を伴う「結婚」という形を、なぜ拙速に選択するのか。当惑し、苦悩する雛子の姿を見て、なぜ平然としていられるのか。なぜ「よく耐えてくれた」みたいな態度になるのか。本気で恋をして、本気で雛子のことを想っている人の態度ではない。苦痛を強いてまで自分の意志を押し通し、自分のものにすることは、断じて愛などではない。エゴに他ならないからである(「七尾の狐」の姿になると、このエゴが強調された形で、前面に出てくるように思われる。別人格ではなくて、寿幸の自我の一部なのである)※。

 

※ネット上でいろんな人の感想を読むと、全体的な傾向として、男性は修の行動を擁護しすぎる傾向にあり、反対に、女性は寿幸の行動に寛容すぎる傾向がある。しかし、どちらも雛子の意志を尊重していない(雛子よりも自分の意志を優先する)という点では同じである。雛子の「天秤」の上に載っているのは、神々(「狐」と「刀」)というメタファーを取り払えば、寿幸と修という二人の男であると言うことができる。しかし、そのどちらが「バトル」に勝利するかは、雛子自身の意志とはまったく関係がない※※。雛子からすれば、『なぜ勝った方と私がくっつくことになっているのか。勝手に決めるな』という話なのである。

 

※※「バトル」には強い方が勝つ。それは雛子への想いの強さである(どちらの想いが「重い」かを、天秤自体には決める権利がない)。なぜこのような(おかしな)暗黙の了解が存在しているのか、知らない。雛子は「物扱いするな」と言っている。

 

ただし、寿幸を擁護して言うなら、かれにはそれ以外の選択の取りようがなかったのである。なぜなら、すでに述べたように、かれには雛子とは別のトラウマがあって、女性と(通常の)恋愛関係に入れるような精神的布置にないからである。それは――修とは別の意味で――雛子を「異性としては」意識できない「呪い」のようなものであろう。だから、寿幸と修は、本当は似た者同士なのである。雛子との関係において、恋愛には移行できないそれぞれの事情を背負っているという点では…※。

 

※寿幸にかけられた「呪い」を、内面的なもの(トラウマ)ではなく、環境的なもの(因習)――つまり、常喜家という一族の命運を背負わされていること――と捉える解釈もある(次を参照:【クリア後推奨】愛と狂気に満ちたキャラが最高すぎたので語らせてくれ【サイレントヒルf】)。ただし、寿幸の場合には、雛子とは異なり、因習がトラウマと衝突するのではなく、因習に従うことで葛藤を回避できるという、逆の関係にある。いずれにせよ、雛子の場合、たんに昭和という時代の因習だけが、悲劇の本質ではないように、寿幸もまたそうなのである。たんに因習から脱するだけでなく、自分の内面と向き合い、思い悩むことが重要なのである。

 

寿幸もまた、苦悩し、葛藤を抱えた一人の人間であると認識することが重要である。それは、寿幸を「狐面の男」として認識し続けるかぎりは、見落としてしまう。寿幸の、仮面の奥にある心であり、その果てしない闇なのである。

 

[補足] 姉・潤子についてetc.

 

寿幸の場合、「厳母」と言及される、母の期待に応えること(「条件付きの愛情」)が因習に従うことを強制する。これは「自分は~でなければならない」という呪縛となる。雛子の場合、「無条件の愛情」を期待する対象は、母ではなく、姉・潤子である。作中で、潤子は終始一貫して、雛子の「幸せ」のみを考えて、行動できた唯一人の人物である。潤子については、様々な解釈があり、一見すると狐側の勢力の一部であるようにも見えるが、ちがう※。当初は、”結婚して良き旦那様と結ばれること”が雛子の幸せになると信じて行動したが、「真エンド」では、自分が選択できたかどうかが重要だという雛子の考えを認めて、雛子の意志を尊重した。

 

※雛子のノートには、迷路の比喩がある。お姉ちゃんは迷路の答えを自分に教えてしまう、でも自分は自分の力で迷路をときたかった。これを象徴するのが、序盤で「霧の怪異」から逃げ回るシーンである。雛子は自力で脱出しようとねばるが、本当に行き詰まってしまうと、お姉ちゃんから「雛子、こっちよ」と声がかかって、梯子が降りる。いつ、いかなる時でも、お姉ちゃんだけは自分の味方をしてくれるという安心感が雛子の深層意識にある。修と共に、潤子は雛子の自我の強力な支柱というべき存在なのである(修については、作者が擁護しているので、是非そちらを参照:【サイレントヒルf】修には修の地獄があり、別のサイレントヒルで戦っていた? 竜騎士07インタビューで謎多き咲子を考察するヒントも(ネタバレあり))。

 

なお、母・君江との「真エンド」における深水家の回想シーンでの「和解」は、そのやり取りをなぜ雛子は忘れていたのか。回想によって(雛子本人が)新たな事実を知るという奇妙なねじれが生じている。知っていれば展開が変わるため、決断がテーマとなっている本作においては、決して些細な問題ではない。この問題について、オーソドックスな見方では、神による記憶の消去が語られるのであるが、明晰夢という主題に関係づけて見られたとき、このやり取りは実は回想ではなくて、「現実では果たせなかったこと」(=母との和解)の夢の中での実現――オカルト的には、亡くなった人の霊との対話――という可能性が浮かび上がる。(このシーンでは、回想の雛子が登場しない。ドッペルゲンガーのように、直接語り掛けてくるのも、ただの演出上の意図ではないかもしれない。)

 

要するに、記憶の影ではなく、君江本人が雛子に語り掛けるシーンなのである。むろん、そのように考えなければならないわけではないが――筆者としては、すぐに誰かを死んだことにする解釈には、ふだんは懐疑的なのであるが――、君江が癌を患っていること(手術も断念されていること)は作中で明示されているし、現実の時間軸は、それから数年経っているはずである。もし、この対話の描写が「偽記憶」でないとすると、つまり真実の開示がこの対話で行われているとすると、合理的に説明のつかないことが雛子の精神世界で起こっていることになる。そして、その可能性は高いと筆者は考える。

 

父・ 寛太の「謝罪」については、これとは違う見方をしなければならない。長くなるのでここでは議論しないが、こちらは心理的に説明のつく現象であるように、筆者には思われる。

 

なお、凛子というキャラについて、これまで本ブログでは一切触れる機会がなかったため、ここで一言述べておきたい。凛子は、本作の二つの精神世界――「霧の町」と「闇の社殿」――において、その両方で、雛子に敵対的な態度をとる唯一の人物である。注目すべきは、「闇の社殿」でボスとして登場するとき、雛子は、狐雛子であるにもかかわらず、「深水雛子」を自認して”凛子らしきもの”と戦う。このことは、凛子の首尾一貫しない態度と関連している。すなわち、凛子としては、(雛子の言うように)大人しく結婚していなくなれば好都合のはずなのに、にもかかわらず、雛子が大人しく「死ぬ」ことを良しとしない。凛子の行動は、自身の利害を超えたものである。それは、人が友情とか愛と呼ぶものに他ならない。

 

2. 九十九神の正体って、結局何?

 

まず、単刀直入に答えから言うと、九十九神の正体(というか実体)が「刀」であることは、作品内で端的に述べられている事実として、まったく疑いがない。

 

このことは、物語の終盤、深水家における謎解きにおいて「刀と狐が喧嘩した」と、この上なく明瞭に言及されており、またある資料では「刀は神と同格である」と述べられていること。また、実在する(とされる)最も古い道具が「霊刀」であること。これらのことから、「ガラクタどもの長」とも呼ばれる、付喪神のボスとしての九十九神の実体が、霊刀と呼ばれる「刀」であることは、疑いの余地のないことだと筆者は信じる※。

 

※「セルロイド人形」は、少なくとも本体ではない。この人形が果たしている役割は、各エンドにおいて流動的であるように見える。当初は、雛子の深層意識の投影であったものが、段階的に「妖怪バトル」フェーズへと移行していったように見える。オカルト的な解釈では、人形自身にも自我はあり、幼い頃の遊び相手だった人形が、当初は自分の(九十九神とは別の)意志で動いて、雛子を助けようとしていた(のちに九十九神に完全に支配された)とする見方もある(次を参照:【SILENT HILL f小ネタ】「くびれがヤバい」とSNS騒然のカカシw 「花嫁に土下座しろ!」親友・凜子のエグすぎる闇【アヤカカシ・凜子考察】)。

 

さらに、この「刀」の正体(霊的実体)は、戎が丘の先祖とされる平家の怨霊であることは、同じく疑いがない。しかし、どういうわけか、従来の解釈では、『f』の神々(ないし信仰体系)に関して、「平家」という要素――内実としては、祖霊信仰――がすっぽり抜け落ちており、その点でまったく不十分であると言わざるを得ない。もっとはっきり言えば、まちがっているのである。

 

 

また、作品内で、たんに「地蔵」と言及される石像も、いわゆるお地蔵様(仏教の地蔵菩薩)ではなく、ご先祖である平家の落ち武者をかたどったもののように見える。(画像のように、手をだらんとして肩を落としたお地蔵様を、筆者は見たことがない。)本来、子孫を守るはずの先祖の霊が悪霊として現れるのは、”狐信仰”とでも言うべき、奇天烈な稲荷像信仰にうつつをぬかして、先祖の霊を大事にしなかった祟りと見るべきだろう。

 

さらに言えば、この神は、御神木信仰(ジブリで言えば、トトロ)とはおよそ関係がなく※、狐信仰もまた――初期の解釈で見られた誤りのように――宇迦之御魂神と混同すべきではない。そのような本格的な神は、いかにフィクションといえども、邪神のごとき扱いをするのは普通の感覚からすれば避けるべきであるし、実際この辺りは慎重に設計されているように筆者には見える。

 

※御神木信仰に、先祖信仰が習合していったのだとすれば、無関係とするのは適切ではない気もするが、稲荷像信仰に移行した際に、平家に連なる先祖信仰――「平家」という主題からすると、御霊信仰の要素も併せもつと見られる――もまた一緒に切り捨てられたのである。狐側の寿幸も”夫婦固めの盃”のときに「先祖の霊」に言及しているが、こちらがいかなる集団であるかは不明。仮にそれが架空の狐の先祖たちであるとすれば、本作の「神々の争い」というのは、異なる祖霊間の争いと見ることができる。

 

[補足] 御神木信仰→稲荷(像)信仰

 

「天より放たれし稲妻が、朽ち木を打ちのめす」=天津神が国津神を追いやる。つまり、稲妻(=稲荷神)が土着の神々を駆逐したということ。具体的には、江戸時代に稲荷信仰が盛んになって、旧千年杉神社が廃れたこと。「朽ち木を打ちのめす」というのは、一見すると奇妙である(稲妻が落ちるまえに、朽ち木だった?)。恐らく、これの言わんとするところは、落雷によって御神木が傷つき、勢いが衰えているところに、稲荷信仰の隆盛が重なったということであろう。こうした現実世界的な基礎の上に、『f』の精神世界的な「神々」とその争いがある。

 

屋久島のウィルソン株

 

なお、以上に述べたことはすべて、雛子の精神世界に現れたかぎりでの「神々」の描写を根拠とするものであって、果たしてそれが『f』の現実世界に(本当に)実在するものなのか、それとも、咲子が語ったり書いたりしたものが、雛子の夢に現れただけなのかどうかは、また別に考えなければならない問題である。(了)

 

【おまけ】

 

「我が怒りと恨み 幾星霜を経て ますます煮えたぎるわ」って、どう見ても平家の怨霊のセリフだろ。「ますます煮えたぎる」と言っているのだから、もともと怨念を持った存在であるということ。非常にわかりやすい描写だと思うが、誰も指摘しないのは何故…? このあと九尾の「貴様など忘れておったわ…… ガラクタどもの長よ……!」というセリフに続く。たぶん忘れられすぎていて、だから資料にも明確に登場しなかったのである(涙目)。

 

何か過去の因縁のようなものを感じ、もしかして常喜家って源氏ルーツなのか?と思ったりするがわからん(探したらそういう解釈もあった:【ネタバレ考察】サイレントヒルFは“源平合戦”だった?ストーリーから読み解く九十九神vs稲荷の神話構図。ツネヨシはヨシツネ(=源義経)のアナグラムである?:サイレントヒルf考察 平家の失われた宝刀と常喜の由来。有識者によると、あの刀は「抜丸(ぬけまる)」というらしいです。なるへそねー)。

 

どうでもいいが筆者がかなり好きなシーン。

 

「雛子?! これはいったい……!」 いや、ほんとに何も知らなかったんかい。まあ、忘れられてたからな…。だから無警戒だったんだ(納得)。

 

事態が飲み込めず、目が泳ぎまくる寿幸。

 

とりあえず「はっ!」 よくわからんけど、去ね!する寿幸。

後先考えないところ好き。

 

乗っ取られる寿幸。ざまあねえ。嘘です。-完-