エッセイ 「弟」 | tanakakawazuのブログ

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                        弟

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 今年、48歳になった弟、信夫が、東京都練馬区の古ぼけたアパートの一室で、布団の上に突っ伏すようにして死んでいるのが発見され、取るものも取りあえず駆けつけた母と姉と私、私の家族、会社の関係者数人でその亡骸を荼毘に付してから4ヶ月あまりたった平成17年8月19日、私は、弟の納骨式に出席するため、松本市内の保養地、浅間温泉に降り立った。

 納骨式は父の眠る万国福音教会の墓地において、午後1時から行われる予定で、それまでにかなりの時間があったから、私は前日から浅間温泉に宿を得ている妻と子らと合流し、しばらく温泉地内を散策した後、前夜、妻が目をつけていたのだというそば屋で、早めの昼食を摂ることにした。
 「もりそばとざるそばはどう違うんやろ?」
 メニューを見ながら大阪弁で問う妻に「もりそばはそばだけで、ざるそばはそばの上に海苔がのっているんです」そう店員が答え、それを聞いた私が誰に問うともなく「海苔って味付け海苔やろか?」というと、店員がその声を聞きとがめるように「当店では味付け海苔は一切使っておりません。ちゃんとした海苔でございます」と答え返してきた。

 大阪ではもりそばとざるそばの区別はなく、海苔がのっていようがいまいがすべてざるそばなのだが、所かわれば品かわるなのである。私たち夫婦は大阪におけると同様にざるそばを注文し、子らには餅の代わりにそばがきの入ったぜんざいを頼んだのだった。
 注文した後、なにげなく店内に目をやると、この地の人らしい商人風の中年男性が、3段に重ねられたもりそばを、小口切りのねぎとわさびをたっぷり入れたつけじるにつけながら勢いよく啜りこんでいたが、その様子がいかにも手馴れていておいしそうである。
 (この店のそばはきっとうまいに違いない)
 そう思いながら私は、弟が大のそば好きで、母のもとに盆暮れに帰った折には、スーパーで一玉80円だか90円だかのそば玉を買い求め、鰹節からとったダシでそれをあたため、通ぶった東京弁で「スーパーのそばはどうにもだめだね」などとボソボソつぶやきながらまずそうに啜っていたという、母から聞いた話を思い出した。

 そしてその話に私は、疲れた体を引きずるようにして練馬のアパートに帰った弟が、室内にあったあの七輪で、市販のそばつゆとそば玉を小鍋にあたため、ひとり侘しく啜っていただろう姿を思い浮かべて、弟も店でそばを食べるときはあの人のようだったのだろうかと、弟と年頃の似通ったこの中年客の所作に、見たことはない弟のそばの食べ様を重ね合わせようとしたのだった。

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 窓越しにみえる職場の前庭の桜が満開に咲き誇った4月8日、仕事を終えて職場に帰った私に、妻から弟の訃報がもたらされた。妻は電話口でこう言った。
 「先ほどお義姉さんから電話があってん。ねえ、あんた。気をしっかりもって落ち着いて私の話を聞いてや」
 突然の訃報に何かヒヤッとした一筋が体を突き抜けるような感覚の中で、私は十数年前に兄弟としての間柄を断絶して以来、一度も会ってはいない弟の面影を脳裏に思い描こうとしたのだったが、それはかなわず、私の心の中に、乗るはずだったバスにすんでのところで乗り遅れたときのあせりに似た感覚が押し寄せてきた。
 弟との長年の疎遠と、今後もその疎遠を容認しようとしていた私に、心の中のもうひとりの私が、見ろよ、これで永久に和解はできなくなったぞと非難を浴びせてきたのである。

 私は翌朝、始発の電車で大阪を出、午前9時前に練馬警察署に着いた。2日間の無断欠勤を不審に思ってアパートを訪れた、弟の勤める会社の人事担当者と大家の通報で、弟の遺体は昨夜のうちに同署に収容されていたのである。愛媛県西条市に住んでいる母と姉は、今、このとき、東京に向かう新幹線の車中だった。

 担当の刑事に別棟にある小さな冷暗所に導かれ、線香の匂いの立ち込める中で、私は古びた台座に横たわった紛れもない弟の遺体に対面した。皮膚は浅黒く変色し始めてはいたが表情はおだやかで、私に何かを話したげに見えた。

 私と弟の対面を見届けて、刑事は言った。
 「弟さんに間違いないですか。死後2日ほど経っているようです。アパートの室内で発見されていますし、打撲の跡等変わったところは見当たりませんので、事件性は薄いと思います。解剖が必要かどうかは検死官の検死の結果次第になりますので、それまでしばらく待合室でお待ちください」

 検死の結果がもたらされたのは、それから1時間後のことである。
 手足にややむくみがみられるが異常というほどではない。髄液を調べたところ血液が混じっていた。これはクモ膜下出血特有の現象である。その他には身体的に異常を示す所見はなかった。以上を総合すると脳内出血による死亡だと判定される。変死を疑う要素は見当たらなかったから解剖の必要性はない云々。

 担当刑事はそういった検死官の所見を私に淡々と伝え、最後に書類へのサインを求めて、遺体を引き取るよう事務的に告げたのだった。
 遺体を引き取って、警察署で紹介を受けた葬祭場の遺体安置所に弟を運びこんだとき、その葬祭場に母と姉が到着した。
 
 憔悴した様子の母はしばらく弟の顔を凝視していたが、やがてその目に涙を一杯ため、弟の両頬を両手で撫でさすりながらいったものである。
 「信夫よ、こんなんなってしもうて、一体、どうしたんな。かわいそうになあ。わたしより先に逝ってしもうて、なんぼか辛かったじゃろになあ。もう安心じゃけんな、ゆっくり休んだらいいけん。ほんとにこんな姿になっちもて。みちゃれや、篤子よ、確かに信夫ぞ」 

 母にうながされるように姉も弟の顔を覗き込み「のぶちゃんもとうとうこんなになってしもて、本当にかわいそうに」そういった後、続けて何かを言おうとしたのだったが、その声は母の嗚咽の中に消えた。

 翌日、母と姉、昨夜遅くに東京に着いた私の家族、それに弟の勤めていた会社の人事担当者ら数人の参列を得て、読経も何もない、ただ遺体を焼くだけの簡素な葬式が行われた。   棺の中に納められた弟の回りに、3人が菊の切花を添え、台座に乗せられて焼却棚の中に消えていく弟を見送ったのである。
 
 小1時間待って、焼却棚から骨と灰だけになり果てた弟が取り出され、担当者からこの骨が喉仏でこれが頭蓋ですなどと懇切な説明を聞いた後、、まだ温みの残っている骨片を幾片かずつ骨壷の中に納め、そして最後に残された骨くずは担当者の手によって、骨壷の中にザラザラと流しいれられたのだった。
 今思い出しても侘しさの募る悲しい葬式だった。
          
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 弟は電気関係の会社に勤める傍ら、西武池袋線江古田駅前商店街で「愚劣庵彦六」と称する画材店を営んでいた。
 弟は画材店を本業としたかったようだが、その収入だけでは生活していくことができず、画材店の営業に支障の少ない深夜や休日に働くことのできる電気関係の会社に職を得て生計を立てていたのである。

 画材店は商店街の目抜き通りから路地道を少し入った小さな3階建てのビルの2階にあった。
 ビルの壁面には大きく独特な弟の自筆で「愚劣庵彦六」と布地に墨抜きされた垂れ幕がかかっていて、階段の上がり口に小さなスタンド式の店の案内板があり、それを小さな電飾が照らしていた。

 店内に入ると、入口から想像するよりも意外に奥行きが広く、10畳程度の広さの中に、額縁、絵具、絵筆等々各種の画材が、所狭しとラックの上や足元に並べられていた。
 店内を見回しながら母が「ああ、これが信夫の店か。送ってきた写真よりずっと広い感じじゃな」そうしみじみいうと、姉が「のぶちゃんが生きているうちに、1回は見にきちゃれたらよかったのにねえ」と受けたのだったが、数年前にこの店を弟が開店したとき、そのことを知りながら祝いをも贈らなかったこの私にはいうべき言葉がなかった。思えば私はあのとき、弟との絶好の和解の機会を自ら放棄したのである。

 弟の住んでいるアパートは、画材店から歩いて10数分のところにあった。耐用年数を越えて10数年は経過しているだろう木造2階建ての連棟長屋で、部屋は2畳の台所と4畳半の奥の間の2間だったが、中に入ると「なかなかきれいにお使いです」という大家の社交辞令があまりにも空々しく聞こえるほどに室内は汚く雑然としていて、私たちはその様子に言葉を失ったのだった。

 明日から新学期の始まる子らと妻を駅で見送り、弟の生前の日常の足跡をかぎながら画材店とアパートを一通り見た後、私たちはこれからの数日間、画材店とアパートを整理するための根城と決めた池袋のビジネスホテルにチェックインした。
 
 夕食を済ませ湯船で汗を流した後、弟の訃報が母の元にもたらされて以降の短くも長くも感じられたここ2日間の出来事のあれこれを、私たちはとりとめもなく話し合ったのだったが、そのうち母はしみじみした様子でこう姉と私に同意を求めたのである。

 「篤子よ、陽一郎よ。あんまり人前でこんなことは口にできんが、信夫はああしてぽっくり逝ってよかったんじゃ。これが半身不随とか全身麻痺で生きとってみい。東京の空港から飛行機で西条まで運んで、今、住んじょるあの家で信夫を看病せんといけんことになってみい。それは大変なことじゃ。そうなって、信夫の意識がしっかりしちょったら、一番辛いんは本人じゃ。それを考えたらこれでよかった。そう思たら少しは気も楽になる」

 私は言葉もなく頷くだけだったが、その母の言葉は、一面本音で反面そうではなかっただろう。母はそう言うことで、無理に我が子の死という現実を受け入れようとしていたに違いない。
 夜も更け、明日から私が画材店の処分と整理を、母と姉とがアパートの整理をそれぞれ分担することを決めて床につく前に、クリスチャンである母と姉は、神に祈りを捧げた。姉が神への感謝の言葉を紡ぎ、その紡がれた姉の言葉に母がアーメンと和するのである。私はただうなだれてその祈りを聞くだけだった。

 天にまします我が神様。今日、私ども母子を、弟、信夫に会わせていただき、その葬式を無事に行わせていただいたことに感謝いたします。アーメン。
 弟はあなた様の御心のままにあなた様の元に旅立ちました。弟は妻子をもたず只一人、この東京で生きてきて、その人生は決して平穏なものではありませんでしたが、あなた様の恩寵のおかげをもちまして、その生を真面目に生きたことに深く感謝いたします。アーメン。
 弟が不正をなさず、人から忌み嫌われることもなく、勤めていた会社では同僚や皆の信頼を得て誠実に働いていたことを知り、どんなに私どもは安心しましたことか。それもこれもあなた様の御恵みだと深く感謝いたします。アーメン。
 弟の画材店の経営は決して順調ではないようでしたが、それでもこうしてここまで、なんとかつぶれることもなく営業してこれたのは、ひとえにあなた様のお陰と感謝いたします。アーメン。
 明日から画材店の整理をいたしますが、どうぞ、この店に大きな借金がなく、つつがなく店を閉めることができますよう、私どもをお助けいただいて、弟を何の憂いもなくあの世に旅だたせてくださるようお祈りいたします。アーメン。
 老いた母の悲しみには例えようもなく深いものがありますが、温かい御心をもって一日も早く母を立ち直らせていただきまして、また母に平穏な日常が訪れますよう祈りいたします。アーメン。
 あなた様はいつも私どもと共にあり、あなた様の恩寵を私どもに降り注いでいただき、私ども母子と陽一郎の家族が幸せに暮らしていけますようお祈りいたします。アーメン。

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 翌朝、私たちはホテルからタクシーで江古田にある画材店、愚劣庵彦六に向かった。大阪で弟の訃報に接したとき満開だった桜花は、ここ東京では既にそのときを過ぎ、風花となって舞い散りはじめていた。
 車がどこかの4つ辻で江古田の千川通りに入ると、商店街に向かって桜並木の一本道が続いていて、歩道は既に花絨毯と化しはじめていたが、それでもまだ桜花は空の中に盛り上がるように白く咲き誇り、車窓の両側を流れるその見事な花景色に私たちは感嘆の声を上げたのである。

 母はその桜花を見ながらいった。
 「東京は桜が多いねや。それにこんなにきれいな桜並木もめずらしい。この桜を信夫は毎年見ていたじゃろに、家に帰ってきたときにはそんなこと一言もいわなんだけんど、なんでじゃったろ」

 私たちはこの日から、千川通りの花絨毯が日毎に重なりを増し、競りあがるようだった桜花が舞い落ちて、青空の中に枝葉が顔を覗かせ始めるようになるまでの3日間、池袋から江古田までの往還を、乱舞する桜風花に目を染めたのである。

 私がしなければならないことは、弟の債務の整理と画材の処分である。もし弟が、商売上、大きな借金を抱えて死んでしまっていたなら、相続放棄等の法的手続きをとることが必要になる。
 私は取引先台帳、商品伝票、顧客名簿などをめくり、まずは債務をはっきりさせることに取り組んだのだったが、調べてみると取引先は画材卸業者数社に集中していて、しかも未払代金は以外に少なく、堅実な商売をしていたことがわかった。弟は借金や債務に苦しめられていた訳ではなかったのだ。
 また、画材は私たちが東京にいるうちに処分するため、近くのリサイクルショップか廃棄業者に引き取ってもらおうと考えていたのだったが、弟が懇意にしていた取引先の担当者の好意により画材商の紹介を得、店内の商品すべてを買い上げてもらうことができた。

 アパートの方では、母と姉とが遺品を整理する傍ら、不要物の廃棄や室内の掃除にあたったが、弟を懐かしみながらのその作業は遅々として進まないようだった。遺品の中には水彩画があり、漫画があり、シナリオがあった。殊にシナリオはダンボールに2箱ほどあり、弟がその道に進もうと考えていた時期があっただろうことを示していた。

 シナリオの中には日本映画製作者連盟主催の城戸賞の最終選考に残った作品があり、漫画はいわゆるナンセンス漫画だったが、ABC漫画賞の佳作を獲得した作品もあったのである。
 母と姉は、これまで断片的にしか知らずにいた弟のそれらの足跡をいとおしみながら、遺品を丹念に整理、処分したのだった。

 私は、債務を整理しながら店を開いて、来店する客に画材を格安で販売することにしたのだったが、その来客の中に常連客が何人かいて、弟の死を告げると、驚き、悲しみ、その早かった死を悼んでくれたのである。
 常連客の一人は涙ぐみながらいったものである。
 「彦六さんはすごく無口な店主さんでしたけど、知り合うととても親切で情があって、手先がとても器用で、私が絵を展覧会に出すときは、いつも彦六さんに額縁の制作をお願いしていたんです。その額縁がまた私の絵にマッチしていて評判がよく、今度の展覧会でもまたつくってもらおうと思っていたのに。本当にお亡くなりになったんですか。本当にもうお会いすることができないんですか」

 何人かの常連客から聞いた話から垣い間見える愚劣庵彦六の人物像はこうである。
 表面上の所作はおよそ商売人らしからず、無口で無愛想だったが、その内実はとても客に懇切丁寧で信頼がおけた。商売っ気がなく頼まれれば額縁や美術小物を器用につくり、それが常連客のこの店への魅力になっていた。

 弟の電気会社での仕事ぶりはどうだったか。
 弟に限って無断欠勤などということはありえない、何かがあったに違いない、そう判断した人事担当者によって、その死は発見されたのだったが、その人事担当者によれば、弟は会社内では殊のほか無口で、与えられた仕事を誠実に誤りなくこなし、上司や同僚から信頼を得ていたというのである。

 弟は、画材店を経営していることを会社に隠していたから、漫画やシナリオへの夢を同僚に語ることなど一度もなく、その思いを内に秘めながら、夢の成就と画材店経営のために、無口な働きバチとなって黙々と働いていたに違いなかった。
 そうである。弟は、それ単独では生計の立てられない愚劣庵彦六の経営と、休日、深夜勤務という不規則労働に一人暮らしの無軌道を加えて、遂には死を得たのだ。

 画材店を整理しているとき、私は机の中に弟の書いた1編の文章を見つけた。それはしばしば店を訪れていた谷本君という画家志望のことを書いたものだったが、そこには谷本君のことを書きながら、その実、弟の内面にその昔たぎっていただろう小説や漫画への情熱の残滓が表れているように私には思われた。

 「物狂い」―愚劣庵愚劣考―と題した文章の始まりはこうである。

 昨夜テレビを見ていたら、演歌歌手の森進一が出ていた。それはデビュー当時の映像で、私は思わず目を凝らして見入ってしまった。物狂いの顔なのである。自己陶酔でありながら忘我。
 人は、何かを非常に強く表現しようとし、表現そのものに自己を取り込まれ、エクスタシーを得る。その一線を越える時、物狂いは彼の中で神とも悪魔ともつかぬ、人間ならぬ姿で、彼を食むのか、あるいは優しく掻き抱くのか。そのとき、彼自身が物狂いそのものとなる。
 その当時、世の女性たちは物狂いとなった森進一に感染し、森進一に対する物狂いと化し、黄色い声を上げ、果ては失神悶絶、脱糞、まさに阿鼻叫喚のあり様であったことを思い出した。

 文章は続いて、ひょろりとして痩せこけた画家志望の谷本君が、ある日、驚くほどの分量のデッサンを店に持ち込み、弟に意見を求めたのだが、そのデッサンに弟はまったく意味を感じることができなかった。しかし谷本君は、それから店に頻繁にやってきては弟に意見を求めるようになったというようなことが書き綴られ、最後にこう締めくくられていた。

 私は物狂いに取り付かれてしまったかと背筋が寒くなった。彼は私の顔を覗き込み、狂騒的に自身の秘密を喋り、笑い、オロオロし、落ち込み、煙草のヤニの臭いを撒き散らし、そして帰っていくのだ。
 私は谷本君がアパートの一室で、あるいは喫茶店の隅で身悶えるようにしながら、デッサンを重ねる姿を思った。彼は物狂いそのものではないのか。しかしやはり私には彼の描く意味がまるで理解できなかった。
 ある日、彼は自画像のデッサンを始めるようになった。それは明らかに今までのものとは違っていた。自己を覗き込む彼の視線は他者へのものと比べるといかにも残酷であり、その自虐性を帯びたデッサンは枚数を追うたびに深化していくように思われた。
 谷本君は自画像の中に原石を見出したのだ。その原石は鈍く光っていると私は思った。それは私の目に射光が入ったいたずらかも知れない。しかし彼の物狂いの様を見ていると、私にはそう映るのだ。そしてその原石は、光り輝くものとなりうるのか、それとも物狂いの果てにボロボロと朽ちていくのか。
 私は一瞬でも強烈な輝きを放ってくれと願わずにはいられなかった。過酷である。自画像のみを毎日、毎日、書き続けていけるのか。仮にそれは可能であるにしても、物狂いのテンションをそのまま保っていかなければ、ただのけれんの創作にしかならないのだ。物狂いの果てに精神の廃墟を見てしまうかも知れないのだ。
敢えて谷本君に向けて私の残酷な希望を言おう。
 進むしかないんだよ。しかも時間も十分に残されてはいないのだ。ゆっくりやっていこうなどと考えないことだ。
 描け。物狂え。描け。物狂え! カケ! モノグルエ! 

 弟にはその人生の中で、谷本君に求めたように物狂った時期があったのだろうか。それとも物狂おうとしても物狂えなかったのだろうか。
 弟と疎遠になる前、私は母のもとに里帰りした折に、弟と何度か杯を交わす機会があった。 その当時、弟は小説を書いていたのだったが、酔うとその才が認められないわが身の不幸を嘆き、世を拗ねることがよくあった。
 私はそういうとき、思ったものである。
 確かに弟には才能があるに違いない。しかしその才はちょっとした小才にすぎないのだ。努力によって何かをなしえ、何者かになりえると人はいうが、それが世にでる程のものでありえるためには、その道を進むに十分な才能がなければならない、しかしその才は我が家の血筋にはないのだと。
 齢を重ねた今となって、このような考え方は一面的にすぎることを私は知っている。しかしあの頃、私はそう信じ、弟はこのまま世を拗ね、世間を斜眼で見ながら暮らしていくしかないのだろうかと、その前途に暗い想像を走らせたのである。

 世の中には偶然ということが確かにある。私が弟のこの文章を読み終えたとき、店の電話が鳴った。受話器をとるとなんと谷本君その人ではないか。
 私は驚き、弟の死を伝え、ちょうど今、弟があなたのことを書いた文章を読んでいたところだと告げると、彼は一瞬絶句し、しばらく黙り込んだ後、すみませんがその文章を送ってくれないかという。私が、まだ一両日この店を開店しているから、是非に弟の遺品と思って何か好きなものを取りにきて欲しい。そのときにこの文章をお渡ししようと伝えると彼はこういったのである。
 「電車賃がないんです」
 彼にこれからどんな人生が待っているのだろうか。私には図りがたいことだが、その返事を聞き、彼の前途に一瞬でもいい、才能輝く瞬間のあることを私は願わずにはいられなかったのだった。

 画材店とアパートの整理を始めて3日目の午後、アパートの整理を終え、鍵を大家に返した母と姉が画材店にやってきた。
 画材を買い受けてくれた画商は、画材の搬出の折に廃棄する必要のあるものは、責任を持って廃棄し、賃貸人に店舗を返還することを約してくれていたから、ことさら店内を片付ける必要はなかったが、それでも店内にいくつか弟の遺品は残されていた。母と姉はそれを整理し、弟の店と最後の別れをするためにやってきたのである。
 アパートの遺品の数々に、店内の遺品を追加して梱包し、宅配便に託し終えて、さあ、いよいよこの愚劣庵ともお別れである。
 姉が「信夫も大層な借金もなく、ようここまで頑張ってきたなあ」そういうと「この前、信夫が家に帰ってきたとき、西条で画材店を開くことができたらなあと冗談っぽくいうけん、ここらでそげなもんは商売にならんぞと私はいったことじゃったが、あれは存外、信夫の本心じゃったんかもしれんな」と母が返し、その後、3人で店内をしみじみ見回して、私たちは愚劣庵彦六に別れを告げたのだった。

 階段を下り外に出た私たちが、もう2度とここに来ることはないだろうと名残惜しげに2階を見やっていると、上背があって体格のいい30歳前かと見えるサラリーマン風の男が息せき切って駆け寄ってきた。
 思わず新たな債権者の出現かと身構えた私に「間にあってよかった。一言、お悔やみをいいたいと思って。私はヤマトリースの山本といいます」そう男がいう。
 それで私は、昨日、取引台帳にあるヤマトリース会社に電話をして、今、目の前にいるこの男を非難したことを思い出した。

 弟はヤマトリースとプロモーションリース契約を結んでいたので、私が弟の死亡を伝え、契約解除の手続きをしたいと申し入れると、契約を解除すると契約金額全額を払ってもらわなければならないという。
 私はその言葉につい激して、物を買うなどの割賦販売だったらその理屈はわかるが、本人が死んでリース契約を途中解約するのに、契約金額全額を支払えというのはいかにも理不尽じゃないか。あなた方には温情というものがないのかなどと食ってかかったのだった。
 結局、契約金額の半額を支払うことで話はついたのだったが、その電話の相手方当人が目の前にきているのである。私は何事かと身構えた。

 すると男は「社長にはとてもお世話になりまして・・・・・・」そういって深々と頭を下げた後、両手で膝頭を鷲づかみにし、頭を垂れて肩を震わせている。泣いているのだ。しばらくして上げた男の顔は涙でぐしゃぐしゃになっていた。
 「社長には本当にかわいがっていただきました。これからインターネットで愚劣庵の新しい企画をつくろうと張りきっておられたのに、亡くなられたなんてことは未だもって信じられません。大分お叱りも受けましたが、社長とは妙に気があって、社長、社長とオレがいったら、そんな呼び方はやめてくれとよく恥ずかしそうにしておられました」
 そういって滂沱の涙。

 その様子に私たち3人も貰い泣きし、母が「そんなに信夫を慕ってくれてありがとうね。もういいけんね。もう泣かんでも。弟は死んだけど、あんたには将来があるんじゃけん、元気に頑張りなさいや」そういうと、男は大きく頷き、またもや滂沱の涙。
 
 男と別れた後、姉はいったものである。
 「信夫も風変わりじゃったけど、今の営業マンもちょっと風変わりじゃったねえ。陽一郎に聞いた画家志望の谷本さんもそうじゃけど、風変わりな人間の回りには風変わりな人間が集まるんかねえ」
 それでも、私たちは取引先にこんなに弟を慕ってくれていた人がいたことに心を温めたのである。

 この日、3日目夜の母子の会話は、私の記憶に薄い。きっと前夜や前々夜のようにとりとめもなく弟の思い出を話し合い、最後に母が、弟がぽっくりいってこれでよかったんじゃと自らを慰めたのだったろう。何か耳慣れない空調音に悩まされながら、暑く寝苦しい夜を過ごしたように思うがそれも今は定かではない。
 
 翌日、新幹線が大阪につき、母と姉を見送って私は帰途についたのだったが、新幹線の中での母と姉との会話も大阪駅の様子も家に帰ってからの妻子との会話も、今は記憶に遠い。覚えているのは、大阪を出るとき満開だった桜が葉桜となって車窓を流れる風景だけである。
 
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 万国福音教会の墓地は、松本市内から車で10数分うねうね上がった高台にある。その高台からは松本市街が一望でき、向こう遠くにアルプス連山を望むことができた。
 父をこの墓地の一角に埋葬してから数年が経つ。その同じ墓地の中に、今日、母の元で眠っていた弟の遺骨を納めるのである。
 
 弟の納骨のために市内にある万国福音教会に集まったのは、母、姉、私と私の家族、それに親族代表として東京の所沢からきてくれた叔父夫妻の8人だった。
 
 そういえば、お父さんの納骨のときは途中から雨になって大変だった、今日もどうも雲行きが怪しい、皆さんお揃いなら、ちょっと早いけれどそろそろいきましょうか、そういう牧師に促されて私たちは、それぞれの車に分乗し墓地に向かった。

 くねくね坂道を上がって墓地に立つと、まだ雨模様というほどではなかったが、みはるかすアルプス連山にはどんよりした雨雲が垂れ込めていて、やや怪しい気配である。
 (天気がよかったら、アルプスが一望できるのに残念やなあ)
 そう思いながら、ええ、昨日、私が掘ったんですという牧師の言葉に振り向くと、十字架の父の墓石が横倒しにされ、その横に四○センチ四方の縦穴が掘られている。

 この穴に弟の遺骨を納めるのである。促されて私は箱から骨壷を取り出し、慎重に穴の中に入れると、測ったように骨壷は穴の中に納まった。
 「ああ、よかった、ちょうどですね、この横にお父さんが眠っておいでですよ、さあ、皆さん、お一人ずつ、土をかけてお別れしてあげて下さい」

 母がまず始めに、スコップでわずかばかりの土くれを骨壷にかけ、ついで姉が、そして私が、私の家族が、最後に叔父夫妻が順々に骨壷に土くれをかけた。

 墓地のあがり口あたりのクヌギの茂り木から蝉時雨。
 最後に穴の中に土をざあっと流しいれて、ちゃんと固めないと土が沈みますからという牧師の言葉に、私がスコップで何回か土を叩き、牧師と叔父と私の3人して横倒しの墓石を起こして骨壷の上あたりに乗せると、墓石は元の位置からややずれた位置に立ち上がった。

 ちょっとお墓を動かしましょうという牧師にこたえて、叔父が鶴嘴の平たい方を墓石の下に差し入れぐねると、墓石はちょっと動いた。
 「もう少し右に、そうそう、そこで結構です」
 
 賛美歌第518番。弟との別れの歌である。牧師の声に合わせみんなで歌った。

いのちのきずなの 絶たるる日はあらん
そのとききたらば みくににのぼりて
したしくわが主に 告げまつらまほし
すくいをうけしは みめぐみなりきと

地にある幕屋の くちゆく日はあらん
そのとききたらば わが家にかえりて
したしくわが主に 告げまつらまほし
すくいをうけしは みめぐみなりきと

ともしびともして つつしみ待たばや
主かどにきまさば よろこびむかえて
したしくわが主に 告げまつらまほし
すくいをうけしは みめぐみなりきと

 見ると姉は、祈るように歌い、母は俯いたまま涙ぐんでいる。
 私は、歌を歌いながらあたりを見回して思ったものである。
 (妻子も持たず、夢も果たせず、少々早死にはしたけど、弟は弟なりに好きな道を生きて、そんなに悪い人生やなかったのかもしれん。そうや、きっと、来年の今ごろ、親父と信夫の好きやった焼酎でももって、アルプスの山々でも見ながらここで一緒に飲みたいもんや)

 みはるかすアルプスは、あいかわらず雨雲に覆われたままだった。

                              (了)