岡山県立美術館 坂田一男

  2020年2月18日(火)~3月22日(日)

 

 

(渡仏)

 32歳で渡仏した坂田一男は、最初パリのグラン・ショミエールの自由研究に通う。そして、10月からはアカデミー・モデルヌのオトン・フリエス(1879~1949)の教室に在籍するようになった。

 フリエスはフォーヴィズムの画家で、異国で寂しい生活を送る一男を、よく家庭に招き親身に面倒をみてくれたようだ。しかし、そもそもフォーヴィズムは感覚や官能の横溢であり、主知的な傾向の強い一男は、フリエスに対しては親しみや感謝の気持ちでいっぱいだったが、フリエスの絵に対しては違和を感じていたようだ。フリエスの教室に在籍していた頃の一男の絵が残されていれば、フォーヴィズムをどのように解釈していたのか具体的に分かるが、残念ながら絵は残されていない。

 

 

 そんな坂田一男がフリエスに代わる師として選んだのが、フェルナン・レジェ(1881~1955)であった。レジェはフランスのノルマンディー地方の内陸部に位置するオルヌ県アルジャンタンに畜産農家の息子として生まれた。最初建築の修業をして1900年にパリに出た。そして、建築製図工の仕事をしながら装飾美術学校やアカデミー・ジュリアンに通った。その頃はまだ模索中で印象派風の風景画や人物画を描いていた。

 1907年セザンヌの回顧展に大きな衝撃を受け、前衛美術運動であったキュビズム(立体派)に参加する。初期の作品「森の裸体」などはセザンヌの影響が濃厚で、人物を円筒形に還元して表現し、Tubism チュビズム(土管屋)と揶揄された。

 1908年からモンパルナスの共同住宅兼アトリエ「ラ・リュッシュ」に住み、同じく住民であったシャガールなどとも知り合った。1910年には画商カーン・ワイラーに認められる。同じ頃ジャック・ヴィヨン、フランシス・ピカビア、ジャン・メッツァンジェらの前衛画家グループ、セクシオン・ドール(黄金分割)に加わり、1912年には同グループのグループ展にも参加している。

 ジャック、ヴィヨンなどの「ビュトー・グループ」はキュビズムが軽視していた色彩を復活させようとしたが、長続きしなかった。レジェはこれらの運動にも参加しつつ、キュビズムとも抽象画とも違う独自の画風をめざした。

 レジェは第一次世界大戦に従軍し、そこで見た大型兵器の機能美に魅せられた。また同じ頃チャップリンの映画を見て、その後の作風に影響を受けた。独自の作風を確立して以降のレジェは、人物とともに機械が主なモチーフになった。

 1920年建築家ル・コルビュジェと知り合い、壁画などの建築の仕事が増える。また舞台装置や映画製作にも意欲的に取り組んだ。1940年からの第二次世界大戦時はフランスを逃れアメリカで活動した。戦後帰国してからも、より幅広い活躍をし、1955年に没した。

 戦後アメリカでポップアートが誕生したが、最近レジェはそのポップアートの祖の一人に見なされるようになった。

 

 

 坂田一男がアカデミー・モデルヌで指導を受け始めた頃のレジェは既に大家であった。経歴からも分かるように、レジェは所謂エリートの芸術家ではなかった。大変な苦労人である。色々な経験を積む中で、独自の美に対する目を培ってきた芸術家であった。

 アカデミー・モデルヌのレジェの教室は、国際色豊かで北欧、アメリカ、ロシア、東欧、イギリスなど多くの国の若者が集まり活気があった。レジェの指導も自由な精神に溢れ、当時のパリで最も前衛的で先端を行く教室であった。

 そんな環境の中で坂田一男は制作に没頭した。師のレジェは素朴でぶっきらぼうな印象であったが、懐が大きく余裕があった。一男はレジェに褒められることはあまりなく、高い視点からの厳しくも温かい指導を受けたようだ。

 その頃は展覧会にも積極的に出品を重ねた。サロン・ドートンヌには落選して激しく落ち込むこともあったが、入選することもあった。またレジェの推薦によりサロン・デ・チュイルリーに出品の権利を得ている。この展覧会は藤田嗣治や児島虎次郎のような大家しか出すことが出来ず、そのことで日本人留学生の耳目を集めた。そんな中で留学中の一番の栄光は1925年国際的な前衛展「今日の芸術展」にアルプやエルンスト、レジェ、モンドリアン、ピカソなどと共に出展したことではないか。アジア人ではただ一人であった。これは坂田一男の仕事が時代の先端を行く美術の動向を体現していたからだと思う。

 

 

 しかし、今回展示されている坂田一男の留学中の仕事を観ると、スタイルに微妙なバラつきがあり、レジェだけでなくオザンファンの影響もみられ、まだ独自の画風は確立されてなく、模索の過程であったように思えた。画面を矩形で分割し、それらに高低を付けたレリーフ状の構成も、坂田一男のオリジナルと言うよりレジェやオザンファンの作品によくみられる様式である。

 

 

 

 

                                              習作   1926 

 

 

坂田一男が慎重に検討を重ね、惚れ込んで師事するようになったレジェであったが、気質には大きな違いがあった。几帳面で、内向的で粘着質な坂田一男に対してレジェは全てにおおらかであった。その違いは当然二人の絵にも反映されている。

13年に及ぶ留学の後半は、ザック画廊での個展などはあったが、大きな仕事の進展もなく、失意の中にあったのではないだろうか。そうでないと妹や父が亡くなり帰国するようになった時、持ち帰ったのは紙製のトランク一つ(中にスケッチ用画紙と鉛筆それに着替え用の肌着が入っていただけ)で、留学中の絵は一切持ち帰らなかったことの説明がつかない。

 

 

当時の日本ではフランス帰りの画家達は帰国すると、留学中の絵を帰国展で公開し、画壇での地歩を築くというやり方が一般的であった。日本ではキュビズムはあまり受け入れられなかったが、それでもキュビズムの巨匠レジェの高弟であり、それなりの実績もあった坂田一男が、その階梯を一切踏まなかったのには謎が残る。世界の画壇の覇者になりたいという強い意欲で臨んだ渡仏であったが、思ったような成果が得られなかった挫折感が、理由であったのかもしれない。また留学中は主にフランス人と親しく交流し、日本人を意図的に避けていて、フランスで学んだ画家達との、人脈が作れなかったのが原因だったかもしれない。いずれにしても、一男の潔癖症が将来の可能性を閉ざしたことは間違いない。そして帰国後岡山から離れず、中央画壇とは、殆ど没交渉の人生を歩むことになる。

 

(帰国・戦前)

 帰国した坂田一男は玉島で干拓事業を営んでいた叔父坂田貢に協力するようになった。また翌年には玉島市乙島新開地(現在の倉敷市)にアトリエが完成する。しかし、時代は1937年に日中戦争が始まるなど、戦時体制に向けて突き進んでいた。こんな時代が、創造的な画家にとっていい時代であるわけがない。ちなみに、パリに留学していたという理由だけで、スパイの容疑をかけられ取り調べを受けたこともあった。

 

 

 このような事情もあり帰国して戦前に制作された油彩の作品は、極端に少ない。それでも絵画への強い情熱は失せることは無く、今まで以上に意欲的に小さなスケッチブックでのデッサンを繰り返していた。

 坂田一男は帰国した時点では、師事したレジェやその周辺の少数の画家たちの影響から、まだ十分に脱していなかった。それでも、方向性は明確になりつつあった。また、そのための方法も掴んでいた(デッサンもそれの一環であった)。このことこそ13年間の留学の意義であり、やがて帰国後の長い模索を経て、日本の抽象画家では誰も成し得なかった成果として実を結ぶことになる。

 

 

                        祭壇の男   1926

 

 坂田一男が執拗に取り組んだデッサンは、科学者が新しい発見のために、繰り返す小さな実験に似ている。ある程度結果を予測し、その周辺部で実験を繰り返すことにより、目標との距離を詰めていくというやり方である。

                                       

                          1939年の画帖より

 

 そんな坂田一男がデッサンに用いたのが定規であった。当時の日本の画家で定規を使ってデッサンを試みた者なんか、誰もいなかったと思う。

 定規だけではない当時の坂田一男がやっていたことは、一般の日本人のやっている事とはかけ離れていた。先に坂田一男は東京や関西など中央の画壇とは繋がりがなかったことについて触れたが、郷里岡山の美術界ともうまく噛み合わなかった。結果、周囲とは無縁で、絶対の孤立状態であった。だが、創作と言う点に関しては雑音を一切シャッタウトした環境が幸いしたのではないだろうか。

 

 

 会場には坂田一男が繰り返し取り組んだデッサンも展示されていた。私はその数の膨大さに驚いた。おそらく日本の抽象画家の中で最も熱心にデッサンを試みた一人ではないのか。それらの中に、この時期のデッサンもあった。直線はすべて定規を当てて引かれていたが、描いては消しを繰り返したようで,それぞれの直線に微妙なニュアンスの違いがある。また、それら直線に囲まれた内側も、質感や明度に何とも言えない変化があり、興味深く見入った。

 

 

                 コンポジション  1936

 

 この時期に描かれ、残っている油彩画についても具体的に観て行きたい。

1936年に描かれた「コンポジション」は、坂田一男のフランスにいた頃の仕事の延長上にある作品であるが、色彩相互の対比が強く、強く目を引く絵である。今回中央部の機械部品のようなものが、実は手榴弾であることが岡崎乾二郎氏により解明された。そのことが理由ではないだろうが、この絵は何故か強い緊張感のある絵である。 

 絵は縦方向に絵を二分するように真ん中に手榴弾が描かれ、その左右で形や色に変化をつけてバランスを取っている。特に中央下部の白い色が塗られた部分は、色のインパクトも強いが、塗りの厳しさが際立っている。

 この絵ではそれぞれの部分の輪郭線に、滞仏中の作品には観られなかった意図的で計算された微妙な変化がつけられている。

同じ年に描かれたコンポジションは、具体物は描かれてないが手榴弾の絵と同じようなコンセプトの絵だと思う。

 

 

           コンポジション   1936

 

 

                  端午   1937

 

 

 1937年制作の「端午」は数年前の作品とはずいぶん印象の違う作品である。モチーフは端午の節句の鯉のぼりで日本の伝統的な題材である。色の組み合わせも独特である。また用いられている線もフリーハンドが多用されている。絵の構造も複雑で、線に囲まれた部分も微妙なニュアンスがあり、空間感がある。

 この作品ではエスキースも残されていて、鯉を抽象化していった過程が分かり興味ぶかい。このエスキースでも平面に奥行きが与えられていて、イリュージョンが意図され始めていることが伺われる。やっとこの作品で坂田一男はキュビズムからもレジェからも卒業したのかなと思える。坂田一男は48歳になっていた。

 

 

 坂田一男の画業を考えるとき1944年と1954年に遭遇した二度の水禍の意味は大きい。その水害では、心血を注いで制作した多くの作品が失われた。

神を呪い、運に見放された我が身を、心底慨嘆したことと想像する。そして、しばらくは塩水につかり絵具が剥がれ落ちたり、染み模様が浮かんだりしたキャンバスの表面を呆然と眺める日々であったと思う。

 しかし、これで落胆し、終わらないのが、坂田一男の凄さである。やがて、水禍がつくり出した画面上の景色に、人知を超えた神の啓示を感じるようになった。同時に主知的な傾向の強い自身の絵に限界のようなものを痛感し始めたと思う。この時の啓示がいかに大きく坂田一男にとって意味のあるものだったかは、その後の仕事の大展開や旺盛な制作が物語っている。

 

 

 

        静物ⅰ         静物Ⅱ             

 

 1934年制作の静物Ⅰ、静物Ⅱは現在倉敷にある大原美術館の所蔵になっていて、今回の展覧会のポスターにも使われている絵である。この絵は1934年に描かれたが、水害で絵の具が所々剥落してしまった。坂田一男は剥落した絵具を集め、効果を考えて部分的に貼り付けたものである。画面上で二つの空間が微妙に重なり、不思議な感じのする絵である。

 

(戦後)

 

※戦後はまだ完成していません。3月20日ころ公開予定です。