坂本善三  構成  1980年

 

 大分と熊本の県境辺りに湧蓋山(わいたさん・標高1500m)が聳えている。この山は単独峰で姿が美しく、麓には多くの温泉が湧き出ている。今回その中の阿蘇郡小国町にある岳ノ湯(たけのゆ)の湯けむり茶屋に初めて伺った。

 岳ノ湯へは小国の役場や商店などがある賑やかな場所から車で行ったが、かなり奥まった所にはげの湯があり、岳ノ湯はさらにその少し先にあった。交通の便が悪いこともあり旅行客はあまり見かけない。ここの温泉を利用しているのは地元の方が殆どのようだ。

 それでも私はこの温泉が大変気に入った。ここには露天風呂はない。しかし内風呂は浴室が広く、浴槽もゆったりと大きい。あまり明るくないので気分が落ち着く。そして目は満々と浴槽を満たしているお湯に注がれる。お湯は濁りがなく透明に近く、微かに硫黄のにおいがする。空け放たれた窓からは、時々高原を吹き渡る風が入ってくる。

 ゆっくり流れる時間に身を任せながら、こんなに寛いだ気持ちでお湯を楽しんだのは本当に久しぶりであった。

 

 坂本善三  空間へ  1978年

 

 ところで、私は小国を訪れた時は、必ずとiいっていいくらいに小国町黒渕にある坂本善三美術館に寄る。今回も岳の湯の帰りに行ってみた。この美術館は小国町出身の洋画家坂本善三の作品を500点ほど収蔵展示していて、1995年10月に開館した。建物は明治5年に建てられた小国の大きな民家を移築し、それにこの地方特有の置き屋根式の蔵を模した展示棟と収蔵等を新築した。館内は総て畳敷きで全国でも珍しい美術館であるようだ。すぐ隣はかつて善三少年が境内で遊んだであろう神社(鉾納社)で、美術館の敷地はその神域と接している。 

 

 

 今回伺った時には「誰かの見た風景 十人十色の風景画(令和元年5月18日~7月7日)」展が開催されていた。展示内容は坂本善三が10点で一番多く、他に野見山暁治、松本英一郎、田中稔之、津高和一、上田薫、安野光雅、宮崎静夫、宮本明、久永強の作品がそれぞれ一点もしくは数点展示されていた。技法は油彩が殆どでコラージュ、版画、水彩などもあった。

 並んでいる作品を観ながら私は戸惑いを覚えた。それぞれの作品は立派で見応えがあるのだが、全体としての調和やリズムが生み出されて無く、どこかちぐはぐで観ていて楽しくないのである。その理由について考えてみたがよくわからない。それでも、もしかしたら坂本善三の絵は他の作品と調和させるのは難しいのではないか?とか坂本善三の絵は我々が思っている以上にはるかに高い画格なのではないか?などと取り留めのない考えが頭の中を巡った。また、それとは別に、この坂本善三作品とうまく調和するであろう作品も思い浮かべてみた。そうしたら日本の作家でなくヨーロッパのフェルナン・レジェやパウル・クレーそれにジョルジュ・ブラックの晩年の静物画や鳥の絵などであった。

 私がこのようなことを言うと荒唐無稽だと思われる方もおられるはずだが、晩年の坂本善三は主にフランス・パリの展覧会や個展で油絵や版画を出展し、識者などから高い評価を得ている。

 坂本善三の絵は厳しい中にも不思議なおおらかさがある。計算を感じさせないレジェの明るくおおらかな大作と坂本善三の絵がたくさん並べられている様子を想像するだけでもワクワクしてくる。クレーは凄い技術の持ち主だったが、それを表に出すことはなかった。そしてその作品は深い。クレーの作品は小品が多いが、この組み合わせもきっと面白いと思う。ブラックの晩年の作品は大変知的である。世界の評価はそういう方向に向かったブラックにあまり好意的でなく、市場価格も今一つ伸びない。それでも私はブラックのこの時期の仕事に強く惹かれる。長い地道な探求の結果、空間の表現に関しても、大変な自在さを獲得していたように思える。そして坂本善三にも同じような傾向がある。この真剣勝負も是非観てみたい。

 こんな戯言を言っても実現の可能性は皆無だと思うが、勝手に展覧会の企画の構想を練るのは楽しい。

 

パウル・クレー  墓地  

 

パウル・クレー  ドゥルカマラ島  1938年 

 

 実は私は大学4年の夏休みに、この坂本善三の油絵の集中授業を受けた。今から半世紀以上前のことである。この時に見聞きしたことは文章として残したいと以前から思っていたが、未だ実現していない。私も歳を取り最近は物忘れがひどい。身近な人の名前もすぐに思い出せず情けなく感じることが多い。今後も記憶は加速度的に薄れ、曖昧になっていくと思われるので、今回記憶を辿り書いてみることにした。

 夏休みにわざわざ学校に出て行き特別授業を受けたのは、理由があった。私は成績が極めて悪く、余裕をもって卒業できるような状態ではなかった。しかし、学校は嫌いで早く卒業したかった。その頃単位不足で卒業できなくなった夢をよく見た。悪い夢だった。そんな焦りもあり、取ることのできる単位はすべて取りたかった。

 

 

 特別授業の講師は坂本善三であった。熊本県在住の画家で当時60代の後半であったと思う。坂本善三は抽象画家であった。戦後の九州の美術界は抽象画の全盛期で坂本善三、大分の宇治山哲平、それに福岡の多賀谷伊徳などが目立つ活躍をしていたが、中でも坂本善三の存在は大きかった。

 集中授業は確か月曜日から土曜日までの6日間ではなかったのか。初日、皆の期待と関心の中に坂本善三は現れた。半袖の白の開襟シャツの下はベージュの綿ズボンの簡素な服装であった。私はその時初めて坂本善三にお会いしたが、本当に大男であった。体の縦も横も大きく、がっちりした体格で顔など普通の人の1、5倍くらいの大きさであった。鼻梁が高く眼光は鋭かった。鼻ひげを生やしていて、髪は長くて耳の下あたりで切りそろえていた。その風貌は昔の武士を彷彿させた。

 いかめしい感じの坂本善三であったが、初印象はとても良かった。高ぶった感じが全くなく、礼儀正しくて我々生徒に対してもしっかり敬意を持って接してくれた。皆も坂本善三に特別な人徳を感じ、私と同じような心証を持ったのではないだろうか。

 

 

 このようにして坂本善三の絵画道場は始まった。この道場では師範は坂本善三だけであった。他は皆平等であった。講習には大学の講師や独立美術協会に所属している先生のお弟子さんも参加されていたが、生徒と同列に批評もされ面白くない思いをされたのではないかと想像する。

 

 講習の内容は6日間ひたすらモデルを見つめて絵を描くのである。キャンバスの大きさはF20くらいで統一されていたと思う。ただし午前と午後に分けられていて午前中は石油の一斗缶あるいは硫酸などを入れる色のついた大きなガラス瓶のどちらかを選んで描き、午後からは裸婦であった。共に時間は3時間ではなかったか。また絵を描く際、背景はキャンバスのままに残すという条件が付けられていた。

 バックは描いてはいけないなどいつもとは勝手が違い、皆最初のうちは要領がつかめず悪戦苦闘しながら仕事を進めていた。先生はその間ずっと我々の背後から、仕事の進捗の様子を観察しておられた。

 

坂本善三  作品82  1982年 

 

 3日目くらいになるとキャンバスと絵具がうまく馴染んできて、描き進めるのが楽しくなってくるが、先生はすかさずその変化について言及された。その頃になると午前も午後も終わりに生徒が描いている作品を壁に並べ、先生が感想を述べられた。しかし、それは先生が気になる作品にいつも限られていた。先生は自分の気持ちに正直だったようで、無理はされなかった。そして作品をくさしたり批判的な事を言われたりすることもなかった。

 

 その合評の場で私の絵が褒められた。それも激賞された。午前の部では私は石油缶を描いていたが、その絵を「大変厳しい」と言われた。また午後からの裸婦も「描く力がある」と真剣に褒めてくださった。私は学年を代表する劣等生でふて腐れた学生だったので、周りは怪訝そうにその様子を見ていたと思う。しかし、私は天に舞い上がるほどうれしかった。

 

 合評のあとは色々な話をされた。その中にはお世話になった人の名前を紙に書いて四国に遍路の旅に出た時の話もあった。40代の時パリに絵の勉強に出かけたが、石造りの建物の存在感の強さに圧倒されたことやピカソの絵の背景は縦と横のタッチを交差させた十文字を執拗に繰り返すことで塗られていて、その交差部分が絵に力を与えているのだと黒板で具体的に説明してくれた。

 戦後は絵画の造形性がやかましく言われていた。坂本善三もその信奉者であった。今の若い絵を描く人に造形性など尋ねても誰も分からないと思うし、説明できる人もいないのではないか。すでに死語になったような過去の遺物であるが、坂本善三は造形とは直線で物を観ることだと、確信をもって言われたのをはっきり覚えている。坂本善三が活躍していた時代はまだ戦後から十分に脱してなく、何故か絵に精神性や厳しさを求める傾向があった。

 世間では朴訥と思われていた坂本善三が我々の前では実に能弁であった。そんな坂本が我々学生に最も伝えたかったのは、絵画において豊かな諧調を獲得することの意味であったように思う。坂本善三は西洋絵画の凄さはこの諧調の微妙な変化にあると捉えていたようだ。この諧調の変化を知るためにクラシック音楽を聴いて学んだとも言われていた。そして坂本善三の自然のグラデーションを理解するためのユニークな学習法が、阿蘇の外輪山の上から広大な阿蘇を観察する事であった。戦後の混乱期で絵具にも不自由していた坂本は、絵を描くのでなく頭の真上から足元までの阿蘇の広大な自然の微妙な変化を目で丁寧に追っていく作業を繰り返したようだ。そんなある日、振り向くと目の前に展開しているのと同じ光景が背後にも広がっていた。これも有名な坂本善三の「等価値」の物語である。坂本善三が阿蘇の話をされる時は、眼前に阿蘇の茫漠とした風景が広がっている感じだった。そして我々学生も先生と一緒に同じ光景を観ているような感じで話に聞き入った。

 

 信頼できる先生の下で絵が描ける喜びを享受でき,参加者は全員最終日まで絵を描くことに打ち込むことが出来た。

 しかし、絵は最後まで困難を極めた。背景を描くことが出来ないので、色を塗った所とキャンバスのままの部分のバランスがうまく掴めなかった。先生は絵では感性などは表面的な物であり、もっと抽象的で形而上的な存在があることを、我々に気付かせるのが目的だったのかもしれない。

 また一心不乱に絵を描き続けることにより、確実に起こる頭では予測できない変化があることを知ったのも大きな収穫であった。

 

 休憩時間は愛煙家の先生はタバコを吸いながら、お弟子さんたちと談笑しておられた。その時の様子を見ていると我々に指導されている時の先生とは、全く別人であった。相好を崩し、子供がじゃれあっている感じであった。そして坂本善三のこういうところが皆に慕われる所以だと納得させられた。

 当初あまり期待してなかったが、坂本善三に指導を受けた一週間は、半世紀以上経った現在でも鮮烈な記憶として甦る。そして、その際伺った話も、絵を描く際の指針として今でもしっかり機能している。