愛と祈りの画家

 

 聖顔  ポンピドゥーセンター所蔵

 

 

 

 

 北九州市立美術館は高見神社の背後に広がる森の中にある。1月10日(木)、私はジョルジュ・ルオー(1871~1958)の展覧会を見るために、歩いて森を抜け美術館に行った。その日は生憎の天気であったが、到着して館内に入ると、思っていた以上に多くの来館者がいて驚いた。そして、どなたも熱心に作品を観ておられた。日本人は昔からルオーが大好きであるが、その人気は現代においても健在なようだ。

 

 

 さて今回のルオー展は、ある意味極端で、最近の展覧会では珍しいほどの焦点化、そして演出がなされていたように思う・・・・・・・

 

 

 ルオーの経歴を調べてみると、20歳の頃はパリ国立美術学校に在籍していて、ギュスターブ・モローの一番の愛弟子であり、レオナルド・ダ・ヴィンチやレンブラントなどの影響の強い絵を描いていた。作品の完成度もすでに大変なレベルに達していて、薄明の中に広がる風景は深い宗教的雰囲気を醸し出していて驚く。

 だが、1903年32歳の頃からのルオーの絵は大きく変わる。その頃の絵は淫売婦、道化師、それに裁判官などを題材にしている。それらをグアッシュを用いて叩きつけるような激しい筆致で描いていて、絵の感じは昏く絶望的である。

 本展はそれら初期の作品や過渡期の作品を一切省いて、1920年以降のルオーが独自の画風を確立し、世界的な評価も高まり始めた頃からの作品のみで構成されていた。しかし、この主催者の判断が賢明でベストであるかと問われれば、私は戸惑う・・・・・・・・

 

 

 

 ルオーは一般的にはフォービズムや表現主義の画家と分類されている。ルオー自身はそのような無意味な分類や種分けには憤りを感じていたのではないだろうか。ルオーには、もともと人嫌いの傾向があったようだが、20世紀の画家でルオーほど周囲と群れず、厳しく孤立していた画家も珍しい。

 だからと言って時代や社会とは無縁で、完全に遊離していたわけでは決してない。

 ルオーは1871年5月27日に生まれた。だが、その誕生からして困難な状況下であった。パリコミューンを制圧しようとする政府軍との激しい争乱の中、ベルヴィル地区のラ・ヴィレット通り51番地の地下倉庫で危険を回避して誕生した。さらに、ルオーは生涯に第一次世界大戦(1914~1918)と第二次世界大戦(1939~1945)の二つの大戦を経験することになる。これらの大戦では今までなかった新しい兵器が次々に登場し、フランスも含めてヨーロッパの広い範囲が戦場と化した。そして、子供や女性など一般市民をも巻きこみ、人類史上例を見ないような多くの犠牲者を生んだ。

 ルオーにとって、自身が経験したこの残酷で救いの無い現実は、制作の大きなテーマになった。そして、現実を直視し、説明的でない方法で悲惨な真実を記録しようと模索した。この試みの一端を、展示されていたミセレーレの連作の中に、観ることができる。

 

 

 この嫌人の画家は20世紀が経験した人類の悲劇を、集団としてではなく家族、母子など最少の単位に還元し表現しようとした。極度に抽象化が図られ、わかりやすい絵であるとは言い難いが、虚心に向き合えば深い悲しみや諦めと共に、静かな感動が強く観る者の心に迫ってくる。

 

 「ミセレーレ」13

  でも愛することができたなら、なんと楽しいことだろう

 

 58枚のモノクロームの銅版画作品からなるミセレーレには、今回の展覧会では一番広い壁面が宛がわれ、全ての展示の要に位置づけられていたのではないだろうか。

 このミセレーレこそルオーの全画業の中の最高傑作であり、20世紀絵画の重要作品の一つであることは間違いない。これらミセレーレの作品に比べるとピカソのスペイン内戦の悲劇を描いたゲルニカなど、大きいだけで漫画チックで深みに欠けるように、私には思える。

 

 

 ところで、私はミセレーレと今回の展覧会で並べられた時期の作品群だけで、ルオーを語ることには、少なからず疑問を感じる。そして、展覧会では触れられていないルオーの14歳頃から30歳頃までのことを、今まで以上に詳しく知りたいという欲求が高まる。家に過去日本で開催されたルオーの図録を何冊か持っているので、それらの年譜を見て関心のある部分を調べようとするが、どの図録も他の丸写しに近く話にならない。

 

 

 ルオーの生涯を考えると幼少の頃よりルオーの頭上には陽光も印象派のモネが描いたような輝く青空も広がってなかったように思う。庶民にとっては生きること自体が、大変な時代ではなかったのか。

 そんな中1885年ルオー14歳の時から2年間ステンドグラス職人マリウス・タモニに弟子入りする。また、その後同じくステンドグラス職人エミール・イルシュの下で修業する。並行して国立装飾美術学校の夜間クラスの授業に出席する。一日の仕事を終えると走ってセーヌに架かる橋を渡り、美術学校へ急いだようだ。私にはおでこが広く、少し頑固そうで内気な少年の顔が、ありありと目に浮かぶような気がする。生活のための労働は大変厳しかったが、そのような日々はルオー少年にとって大変充実していたに違いない。きっと表情は暗くても目は輝いていたのではないか。

 1890年19歳の時パリ国立高等美術学校に入学する。しかし、最初師事した教授が亡くなり、1892年21歳の時、新しく教授になったギュスターブ・モローのアトリエに入った。同窓にはマチス、マルケ、マンギャンなどがいた。ルオーはモローが最も才能を高く評価し、可愛がった生徒であった。1893年と1895年にはローマ賞に出品する。だが、モローの強い支持にも拘らず落選する。そして1898年にはルオーにとって絶対的な存在であったモローが72歳で死去する。

 ピカソは幼少の頃からの絵がたくさん残っていて、腕を上げていった過程がよくわかるが、ルオーの場合ピカソ程以前の作品が残されてない。しかし、パリ国立高等美術学校の生徒であった当時描かれた絵のレベルの高さは冒頭部分でも書いたように驚異的である。デッサンなども巨匠ミケランジェロと比べても遜色がないように私には思える。そして宗教画での深々とした幽暗の世界の表現にも心打たれる。

 

 人のいる風景 1897年作 (未展示)

 

 しかし、先に書いたように1903年頃からは突如自暴自棄、やけくそともとれる画風に転換する。この変化は、私にはポロックのアクションペインティングよりも衝撃的に映る。この変化の要因はルオーにとっての後ろ盾であり、神のような存在であったモローの死による喪失感が一番大きかったかもしれない。満を持して臨んだローマ賞の蹉跌が原因だったかもしれない。社会や時代に対する不信や不満であったかもしれない。本など読むと色々な事が書かれているが、私はどれに対しても素直に頷けない。

 ルオーは若い頃から貧しい境遇の中で人一倍の努力を重ねてきた。その間に、本人にもよくわからないような不満や憤懣が鬱積していたようだ。このような傾向の仕事が15年近く続くので、ルオーは内部に膨大な量のマグマを貯めていたことになる。

 私は大学生の頃、街をぶらついていてたまたま立ち寄った古本屋で、ルオーの粗末な画集を見つけた。ページをめくっていたら、ルオーがこの時期に描いた後ろ向きの大きなお尻の裸婦の絵を見つけた。荒い筆使いであったが、豊かな色彩の感じに強く惹きつけられ、傷んだその本を買った。私はこの頃のルオーの仕事をネガティブに捉えていたが、実は間違いだったかもしれない。捨て身で物に迫り、描くことにより、とんでもない感触を掴んでいたに違いない。そうでないとこの時期に続く時代の豊かな実りの説明がつかない。

 

 ヴェロニカ

 

 聖顔 ヴァチカン美術館

 

 1918年頃からは水彩、グアッシュによる表現を止め、もっぱら油彩による表現が主になる。それまでのルオーの絵を覆っていた怒りや不信は浄化され、絵の中心にキリストがいるキリスト教世界が強く意識され、表現されるようになった。色彩も暗鬱な印象のものからカラフルになった。光も目に見える再現ではなく、自ら発光しているように表した。今回のルオー展はすべてルオーのこの後期に属する作品である。それら作品を、種類ごとにいくつかのグループに分けて展示していた。

 これらの作品の中にはルオーの傑作と呼ばれているものが、今回は多数含まれていた。例えば聖顔に限ってもポンピドゥーセンターの1933年制作のもの、ヴァチカン美術館の1946年頃のもの、ジョルジュ・ルオー財団、パリの1937年制作のものなどである。それらを実際に観て、傑作と言われている作品が発するオーラの強さを改めて確認させられた。

 聖書の風景も国内の作品だけでなく上記の美術館から傑作が出展されていて、かつてない充実ぶりであった。

 

 秋の夜景

 

 キリストとの親しき集い

 

 この時期のルオーの制作の様子を撮影した写真を観たことがある。ルオーは油絵をキャンバスに描かないで、麻布で裏打ちされた紙に描いている。またイーゼルに立てかけて絵を描くのでなく、大きなテーブルいっぱいに、いくつもの作品を並べ寝かせた状態で絵を描いていた。さらに一枚の作品に集中して取り組むのでなく、周りの作品にも次々と手を加えていた。そして絵具を塗り重ねるだけでなく、時には厚くなった部分をスクレイパーで削り取っていた。このような作業を執拗に繰り返すことにより、絵によっては絵具の厚さが数センチに及ぶものもあったようだ。

 この頃の作品はキリストの聖顔だけでなく、風景などもシンメトリーを意識した構成の作品が多い。普通シンメトリーの作品は動きがなく時に退屈な印象を与えるが、ルオーの場合は複雑なマチエールや色調が与えられ、奥深さや無限の広がりを感じる。また光を含み、内側から発光しているように思える表現も、絵具を何層にも塗り重ねることにより可能になったのではないか。

 ルオーの晩年は第二次世界大戦とも重なる。この戦争でヨーロッパは第一次大戦以上の惨状を呈した。ルオーは目に見える現実に深く失望し、争いのない安らかな日々を、絵の中に強く実現しようと希求したのではないか。

 

 

 大分以前から絵画の死が言われ、近隣の美術界の動きを見てもインスタレーションなどが盛んで、絵画は元気がない。しかし、今回の展覧会は不満も残るが、ルオーの晩年の大変充実した作品群を観ることが出来、絵画の持つ豊かさや可能性を改めて確認させられたような気がした。