北九州市立美術館分館

2017年7月14日(金)~8月27日(日)

 

 

 

佐伯祐三 

 

 

 妙に違和感を覚える展覧会であった。それは私が1930年協会や独立美術協会についてイメージしていることと、この展覧会の内容がうまく重ならなかったことに起因しているのかもしれない。この時代は日本の洋画史の中でも最も熱い時代の一つであった。主にパリで学んだ画家たちが相次いで帰国し、その留学の成果を帰国展で披露した。新しい傾向に飢えた人々はそれらを観て歓喜し、多くの追従者や崇拝者が生まれた。また、舞台裏では画家という名の男たちが、画壇の覇権をめぐって熾烈な戦いを繰り広げていた。その様な時代の熱気がこの展示からは伝わってこない。勉強不足の私が、イメージした世界が現実と乖離しているにしても、この違和感の原因は考えてみるべきではないか。

 理由でまず挙げられるのは、作家の人選と作品の選定や展示数ではないだろうか。1930年協会の人選については、主要メンバーはすべて入っていて異論はない。しかし軽重の判断には疑問を感じる。1930年協会のチャンピオンは、確かに前田寛治も里見勝蔵も人気があったと思うが、佐伯祐三である。作品数は前田が11点、里見が5点に対して佐伯は4点である。佐伯の作品は傑作ぞろいであるが、あまりに少ない。傑作が並び、かつ大作の混じる前田寛治には、存在感で勝ち目がない。前田の作品の質の高さには最大限の敬意を表したいが、前田は帝展に出品しながら1930年協会にも所属した画家である。つまり権威のある官展と在野の展覧会の二股をかけた画家である。前田はわずか33歳で亡くなっている。そのようなこともあり本人の責任については言及したくないが、新しいものとクラシックな価値の間で揺れ動いた画家でもある。1930年協会が在野を標榜する組織であったのならば、前田寛治の展示に関しては、もっと熟考された配慮があってしかるべきだったと思う。

 

前田寛治  棟梁の家族

 

 

 

 独立美術協会に関する今回の展示は、1930年協会以上に不満があるし、問題を感じる。私に独立美術協会の初期の主要メンバーを挙げろと尋ねられたら、児島善三郎、林武、三岸好太郎、高畠達四郎、小林和作、須田国太郎、野口弥太郎、海老原喜之助、鳥海青児だと答えるであろう。中には小林和作のように温厚な人格者もいたが、このメンバーは闘士集団でもあった。これらの画家達をクローズアップしない事には、この会の性格も時代が持っていた雰囲気も、何ら伝わってこない。本展示では、児島善三郎の1930年以降の作品は全く並んでいない。児島には1930年作の「秋」や1932年作の「鏡」などの傑作もある。林武にも1935年作のパリで制作した一連の裸婦の絵があるのだが。三岸好太郎は一点のみのおまけ展示である。高畠達四郎は1936年作の「海の幸」があった。この作品は後期の様なプリミティブな感じではなく、豊かな量感の裸婦が、真珠のような光沢をもつ色調で描かれていて興味ぶかく観た。小林和作は、展示されていなかった。須田国太郎は2点のみの展示であった。野口弥太郎も1点のみのお情け展示であった。私が最も独立らしいと感じている海老原喜之助は「雪景」1点のみの展示であった。しかも1931年制作、つまり独立美術協会に迎えられる前、パリで制作された作品であった。鳥海青児は1943年に会員になっているので、展示が無くても仕方ないかなと思うのだが・・・・・・・

 今日から見ればそれほど意味のある仕事をしたとは思えない創立メンバーの小島善太郎、清水登之、鈴木亜夫、鈴木保徳、中山巍、林重義などの仕事は丁寧に拾い上げている。また思想的な問題で退会した福沢一郎にも重きを置いていて、大作3点もの厚遇ぶりである。独立の主要メンバーの扱いが極めてぞんざいなのに、あまり重要とは思えないものには必要以上にスポットを当てている。まさに本末転倒である。私は図録を買ってないので企画者の意図はよくわからないが、企画の切り口を間違えていることだけは確かだ。初めから佐伯祐三、前田寛治、里見勝蔵だけに、的を絞った展覧会を企画すればよかったのだ。この3人につき合わされた1930年協会や独立美術協会のメンバーこそいい迷惑だ。かなり血の気の多い連中だったので、あの世でもこのことを知り、怒り狂い、その熱気が伝わってくるような気がする。

 不満ばかり縷々述べてきたが、切り口を間違えたことによる思わぬ収穫もあった。その一つが前田寛治である。これほど充実した前田の北九州市での展示は初めてではなかったのか。それにしても前田は特異な画家である。下手なようでうまい。密度や量感の表現も独特である。色彩も不思議である。私は前田の絵を観ていて前田の脳の中を覗いてみたい強い欲求にかられた。また前田と同じように絵画の造形性を真面目に追求した伊藤廉の作品が2点であるが観られたのもうれしかった。川口軌外は合計4枚展示されていた。川口はかつてキュビストとして脚光を浴びたが、現在では忘れられかけた存在になっている。また、和歌山県の出身という事もあり、九州ではほとんど紹介されることがなかった。それでも川口は福岡市で夭折した中西中通の師であった。私は、マチエールや明度の変化の癖など、二人の作家に共通するものを注意深く探してみた。

 里見勝蔵は1930年協会の創立にも独立美術協会の創立にも深く関わっていた。しかし、二つとも途中でいなくなった。私など里見は独立よりも国画会の作家であるという印象を強く持っている。さて里見の再評価の問題であるが、私は里見を評価しない。今回のようにたくさん里見の絵を見せられるだけで、機嫌が悪くなる。

 

 

   林武  扇を持てる女

 

 

 ものは異なる視点で眺めれば、違う姿を見せてくれる。美術館の関係者も若返り、昔の作家の一生と全く重ならない世代になっている。それら若者が展覧会を作り出すとき、資料は豊富にあるだろうが、どうしても想像の所産になることは否めない。そして、過去の作家と一生が重なっている我々にとっては、若干の違和感があることは仕方のないことだと思っている。それより私が期待しているのは全く思いもよらぬ切り口で、まったく別の姿を浮かび上がらせてくれることだ。美術館を出てしばらく、そのようなことを考えながら歩いていた。