薩洲上野家

 

 令和6年6月16日、鹿児島県出水の旅、天眞正自源流兵法の故郷を訪ねては、3日目最終日を迎え、天眞正自源流兵法・・薩摩最後の地・出水麓に辿り着きました。

 

 

 天眞正自源流兵法、薩摩終焉出水麓の地は、上野家先代、我が尊父「御流儀第27代宗家上野源心翁」が、大正2年に誕生した故郷です。

 

 

 上野家の跡地は、家門のみが残存しており、60年以上前・・・家族と共に子供の頃、訪れたそのままでした。

 

 私と弟が生まれ、私が3歳、実弟が1歳まで住んだ家は、西出水にありました。

 上野家の菩提寺も30年程前に廃寺となり、上野本家の菩提寺は、神奈川県に移墓しております。

 

 

 私が、上野家門前に佇むと、何気なく師範代のO君が、私の隣で門構えをじっと見つめていました。

 

 

 そして「門しかないのですね・・・???」とつぶいやきましたので、「そうだね・月日を感じるね・・」と。

 

 師範代には、この門が上野家の門である事を言いませんでした。

 何故か・・上野家の思い出は静かにしておきたかったのかも知れません。

 

 薩洲上野家は、神田宗季から派生した上野康定を初代として、代々島津家に仕えた武家の頭領でした。

 

 上野源心の家系は、この薩洲上野家の分家で、初代を藤原景根こと「上野左右馬助景用」が初代となります。

 

 

 上野新影流の正統を代々継承して、肥後細川藩の剣術指南役を務めた上野家は、五代景澄の代で薩洲上野家に帰属、本家を相続しました。

 

 後、八代教宣は「神変自源流居合兵法」を創始、十一代上野源心は「源心流居合術」を創始しました。

 

 

 薩洲出水麓の上野家は、明治維新まで出水麓に居宅を構え「出水城/亀ヶ城・花見ヶ城」の守護神として薩摩の防衛拠点の守りを固めたのです。

 

 

 上野家は、先の終戦まで出水に居住していましたが、本家も分家も戦後、関東に移住しました。

 

 出水の麓には、上野源心が天眞正自源流兵法を継承した先代の家系である嫡流縁戚の薩洲溝口家本家の居宅門が残っています。

 

 

 現在は、全くゆかりの無い方が、住んでいますので迷惑をかけないのが、賢明ではありますが、やはり、人が住んでいると言う事で「門構えの手入れ」は、行き届いております。

 

 非常にきれいにされているのが、見て分かりますが、相当改修されている様です。

 

 

 現在の持ち主の表札は、左側に・・・。

 

 溝口の表札が、右側にかけられています。

 

 

 この居宅も、先々代の溝口玄心翁が、住んでいたのだと思うと感慨深いものがあります。

 

 

 

 

 薩洲出水麓を充分に堪能して、自源流探訪の歴史巡りは、終盤です・・。

 

 全員・・疲れも頂点に達していますので、一休みして、次の目的地である「山田昌巌.島津墓」をに向かいます。

 

 

  次回予告

 

 

山田昌巌・島津墓地