こんにちは、ムーチョです。

先日、桜宮高校バスケ部の主将が顧問から体罰を受けた翌日に自殺したという報道がありましたよね。

私も数日分の朝日新聞を引っ張り出してきて、関連記事を改めて読み直しました。

その中に当の顧問教諭の、とても気になる発言を含んだ記事がありましたので、引用します。

体罰なしの指導は無理だったのかの問いには
「できたかもしれない。ただ、たたくことで良い方向に向く生徒もいた」

私はこれを読んだとき、ハッしました。

私自身も含めて、いわゆる指導者の立場にある者が常に陥りがちな危険をこの発言は教えてくれています。

「たたくことで良い方向に向く生徒もいた」

本当でしょうか?

本当に、かの教諭がたたいたことで、その生徒が良い方向に向いた、
という事実があったのでしょうか?

事実はわかりません。

ただ、一つ言えることは、このセリフは、

「一人の人間を自分がコントロールできる」

という傲慢な思いから発せられている、ということです。

これはおそらく、無意識のレベルになるほど身についてしまった考え方だと思います。

ものすっっっっっごく当たり前のことを言いますが、生徒たちが影響を受けているのは、この教諭だけではありません。

親や兄弟その他の家族、友人、先輩、他の教師たち、各種メディア、インターネット…。

数え上げればキリがありません。

それなのにどうして、「自分だけ」が「自分の体罰だけ」が影響を及ぼし、生徒の行動を良い方向に変えたなどど断言できるのでしょう?

そもそもの話として「良い方向に向く生徒もいた」という認識そのものも怪しいと思います。

ごく容易に想像できるのは、また先生に殴られたら嫌だから従順になった、という程度のことではないでしょう?

これを「良い方向」と言うのはあまりにも傲慢だと思います。

私は、この教諭が繰り返してきた暴行の大きな要因の一つが、このような傲慢な考え方にある、
と確信しました。

この教諭は、一方で優秀な指導者であるという評価も多かったと聞いています。
このような発想は、いわゆる「優秀な」指導者こそが最も陥りがちなのではないか、と思いました。


とは言え、
私は今さら、この教諭を断罪する意味でこの記事を引用したのではありません。

我々指導者は、生徒のためと思い、様々な「指導」を行います。

我々指導者は、自分の指導のお陰で生徒が良い方向に向いのたのだ、
と常に思いたくてしょうがないのです。

これは完全に指導者のエゴで、我々は常にこのエゴと戦う必要があるのですが、「優秀である」と評価されると、なおさら忘れがちになってしまいます。

勉強だろうがスポーツだろうがその他の分野であろうが、指導者という立場にある者は常にこのエゴと戦わなくてはいけない、と思っています。

我々指導者は、生徒に対して「きっかけ」以上のことを与えることはできないし、それこそが重要な役割なのです。

今回の事件を我々指導者は人ごとと思わず、自戒の念を込めて日々を過ごす教訓として受け止めたいものですね。