自発的な自分は存在しない。
そのことはこれまで説明してきた。

自我は、自らの肉体に収納されているのではなく、
社会との呼応の中で、
まるで超能力のような理解できない作用を生み出す。

その一つが、
外発的な抑圧によって生み出される欲求を
まるで自らが発した欲求のように誤解させる作用だ。

西部の国民の道徳では、確か車への消費意欲のことが書かれていた。
道路があり、会社があるから、車への欲求が生まれる。
社会的かつ他発的(あるいは社会迎合的)な欲求である。

ところで、死の恐怖は、果たして自発的なものか?
いや死の恐怖さえ、車と同じく
自発的な恐怖ではない。

死の恐怖の一つに、
「自分が消えてしまうのではないか?」
というのがあるのは分かるだろう。

簡単に言えば、
自分などもともとない。
よって自分が消える恐怖も、
「自分という幻想」と同じく
幻想なのである。
そのうち詳しく考えたい。