渡辺剛志です。
『12人の怒れる男と女』終演いたしました。
ご来場いただいた皆様、ありがとうございました。
さて、千秋楽を終えて三日ほど経ちましたが、どうにも、形容しにくい絶望感に襲われていました。
本来、本番を終えればスッキリし一旦舞台から離れて悠々自適なプライベートを過ごすのが恒例でしょうが、今回はいつもと違うようでした。
ドロドロと、陰鬱とした気分に襲われてひたすらマイナスな方へ思考が向かっていく。そんな感じでした。
今回、『12人の怒れる男と女』のお話を頂いた時には、舞い上がるような気分でした。初めて拝見したのは4年ほど前、プロを目指そうとすら思っていない、学生演劇をしていた時でした。
東京乾電池の怒れる男を見て、あまりの話の面白さ、プロの俳優の技術力に感動しました。それからなんだかんだプロを目指して養成所等を経て現在に至るまで、『12人の怒れる男』への漠然とした憧れは心のどこかにいつもありました。
その憧れの作品の、更に憧れである陪審員8号の役をすることになった。一つの夢が叶ったような感覚でした。
私はこの作品を何としても上手く行かせたい、その思いに駆られました。劇団のプロの方にもお声がけして、プロの方に納得してもらえるものにしたい。そのためには何だってしてやりたいと、稽古に励みました。より作品が良くなるようにと信じて様々な提案を持ち込み、稽古場内で衝突することも何度かありました。そして自分の中で8号を育て続けようと役の解釈をひたすら深めていきました。
紆余曲折ありながらも、『12人の怒れる男と女』は無事終演しました。先輩方にも観ていただき、労いの言葉を頂きました。
膨大なセリフ量、聞くセリフ量なだけあって解釈を深めるのに大変な作業量が必要で、今までにやったどの役よりも理解度は深かったように思います。
しかし、終演後共演者から頂いた言葉は『人のために芝居をしていない』でした。
この言葉から考えられる点はいくつかあります。
作品の解釈を深めることに一生懸命であったこと、座組を信用しきれていなかったこと、そして人のための芝居というものの知識が根本的になく、我武者羅に取り組むしか術が無かったということ等。
演劇における演技というものは、個人技のパフォーマンスが大きいのではないか、という大きな誤認をしていたことに気づきました。
私は、今回の公演が養成所から今までの3年間学んできた技術の集大成になればと思い、いろんな方をお声がけしました。戯曲の読み込み、日本語を日本語らしく喋る技術、先読みをなるべく排除するマインド、熱量を操作する技術、相手の挙動を観察するメソッド。しかし、その3年間培ってきたものが『個人技』一点というものであるならば、なんて狭い技術なのだろうか。
そう、本番を終えて全身に襲ってきた絶望感というものは、『3年間の集大成』というものがどれほど小さきものであったかを痛みを持って知らされていたためでした。
私は何とか絶望感の正体を突き止めて、ではこれから何を意識するべきか考えました。
ふと頭に浮かんだのが、以前先輩の外部出演で拝見した『授業』という舞台でした。
そこでは二人芝居がメインに繰り広げられており、その二人は円の山口さんと、大谷さんでした。
恐らく数十年のキャリアの差が生まれていた二人芝居でしたが、これが不思議なことに実力差による一人芝居が生まれているわけではなく、ちゃんと二人の芝居としての空気が生まれていたことでした。当時、拝見した時に山口さんの『拾う技術』が凄まじいと感激しました。
そこで私が誤認したことは、ベテランの方の言葉を拾う精度が凄まじいので、相手役を置いていくことなく芝居をリードできていたのではないかと考えたことでした。
しかし、カルチャーショックに近い衝撃を受けた今では、あれこそが相手を生かす芝居なのではないかと考察しました。
キャリアの差を考慮した上で、自分の芝居を殺すこともなく、相手の芝居の性質に合わせて粘土のように形を変えていく。合わせていくに留まらず、引き出していく。そこには言葉の力以上の、芝居の変幻自在さがプロの手によって表れているように見えました。
もちろん、私が学んできたことが間違っていたということではありませんが、役の解釈を深めて、物語の中で生きることが全てではないということがよく分かりました。人それぞれの表現形態があり、自分自身も環境に最適な表現を選択していく、その引き出しを増やすことが重要なのかもしれないと思いました。
どのように増やしていくかは未だ見当もつきません。とても長い道のりかもしれません。しかしこれから目指すべきはそのような芝居だなぁと感じます。
役を深めることを楽しむ、それを目的とした取り組みは、この芝居にて卒業です!
この大敗北を糧に、もっともっと精進していきます。