左利きの悲劇
突然であるが自分は生粋、バリバリの左利きである。
生まれたときから左利き。
流石に箸は、小さい時親に強制されたけど、鉛筆まで強制して右に直すのは
身体上良くないと親が考えていて(その信憑性は定かではない)、書くのは
完全な左だ。勿論スポーツする時もボール蹴るのもバット振るのも左だ。
パソコンやる時だって必ずマウスは左に置く。
腕時計も大抵左に巻く。
なぜ「生粋」と強調するかというと根拠がある。
ちょっと下ネタになってしまうけど、自分は男であるエロ本を思春期の時
読んでいたとき、エロエロ豆知識コーナーみたいなページで、いわゆる男のナニが
微妙に誰彼も左か右に微妙に向いてるそうだ。それで先天的な利き手が判断できるらしい。
そんなもん用足している時だってちゃんと観察した事無いが、確かにエロ本の言う通りだった。
ちょっと科学的に証明されて感動した?かもしれない。
まあ、それはさておき、左利きはナニかしらにつけて話題になる。
幸も不幸もである。
最近ショッキングだったのは、あるネットで生粋の左利きは平均寿命がなんと
右利きより10歳近く短いというのが証明されているそうだ。
これは、流石に凹んだ。
脳から起因しているのか?定かではないが、
確かに左利きの人は何かにつけて変人扱いされるきらいがある。
それに加えて自分は、AB型なので生粋のアブノーマル系人間なのかもしれない。
一方で、左利きは芸術的センスがあるとも言われているそうだ。
まぁ、確かに自分は楽器演奏や絵画に多少興味ある。けど、上手いかどうかは微妙。
左利き、特に生粋の左利きは、日本人の場合せいぜい10%も満たないだろう。
そういう意味では、完全なるマイナリティーなのである。よってこれは自分だけの妄想かもしれないが、
やたら左利きの人を見ると連帯感がわく。
例えば、待ち合わせで自動改札をボーっと眺めているとすぐ生粋の左利き人を判別できる。
世の中全て、多数派右利き仕様なのは、左利きであるほど痛感する。
自動販売機然り、自動改札然りである。なぜかコインを投入するために自動販売機で右に50CM移動している自分に気付く。
自動改札も本能的に切符は左手で握る事になるので、投入するとき腕を交差する形でわざわざ右側に投入する(右利きの人には、「最初から右手にもてよ」と言うかもしれないが、わざわざ交差する煩わしさを考慮しても尚、左手で投入する方がラクなのだ、多分サウスポーの人なら理解してくれよう)。
とにかく、畑からぼーっと自動改札を眺めると、わざわざ左手で投入する人が10人か20人に1人位出現する。その時根拠の無い「サウスポー同盟」みたいな連帯感が勝手に沸いてくるのだ。
確かに、初対面の人でも目の前で文章書いているとき「へぇー、サウスポーなんだ」とかなりの確立で話のネタにはできる。良い点といえば、良い点だが、世の中結構不利にできている。先に書いた販売機ネタは勿論、文を書いている時でも肘が隣の人とぶつかってしまう時がある。なぜか、片身が狭いのは左利きである。少数派の宿命か?
昔から左利きは歌のネタにもなった。南佐織の「私の彼は左利き」ピンクレディーの『サウスポー」等がそれである。今でも甲子園の応援歌で「サウスポー」とかが流れるが、球児以上に部外者の自分がこの応援歌がかかると燃えて興奮するというおかしな魅力を持った曲でもある。
上記の曲は、左利きをとても祭り上げてくれるありがたい曲だが、
一方では「ぎっちょ」なる言葉もあるし複雑でもある。
そして、過去の経験でもっとも辛い悲劇を体験したのは、小学生の時の「習字」だ。
どうしてもどう練習しても、クラスでぶっちぎりで習字は下手糞だった。
後々、その原因が左利きだったという事が判明するのだが、当時ははなたれ小学生で
そんな原因はずっとわからなかった。とにかく、習字の発表会ともなれば、地獄の拷問の時間だ。
なにしろ「ハネ」「トメ」等の基本的技術が左利きにはできないのだ。これは、かなりの
ハンディキャップ。おまけに、横棒縦棒のみを書くにしても均一な太さにならず、
うねうねした文字になる始末。鉛筆なら多少ごまかせるが、筆は不可能。
第一左利きに「書き順」はあって無いような物。まず横棒書くにしても右から左に書くのが
左利きの運命なのだ。
したがって、習字をするには墨汁をためたり、すったりする一連の前動作があると思うが、
あの時は一番緊張感がみなぎり心臓が飛び出しそうになる。
クラス換えで、ある時例の発表会で、自分と同じ位へたっぴーな児童が居た、
自分には一瞬でわかったそいつが左利きだったという事を。
そして、そいつの文字を見て妙な同情と連帯感を感じると共に、自分だけじゃないという
安堵感もあった。
その後、
中学生になってから筆だけは、右で握るようになったのは言うまでも無い。
あの頃こんなん流行りました① 牛乳キャップ集め
神出鬼没&超気まぐれ日記
実に2ヶ月ぶりか?
適当でスマソ。
という訳で(なにがだ)あの頃こんなん流行りましたシリーズを開始しようと思います。
過去にビックリマンネタをやりましたがそんな雰囲気で。。。
ビックリマンが丁度流行していた頃(80年代中期)、影ながら流行っていた?もう一つの
ネタがありました。
それは、牛乳キャップ集め。多分ビックリマンと違ってこの流行は一局的、もしかしたら
うちの小学校のみでしか流行らなかったブームかもしれない。
&全くお金のかからないコレクターブームだったんで、今の少年少女達からしてみれば
驚きも隠せないだろうが、改めてある意味平和な時代だったのだと思う。
一応断っておきますが、当時の小学校は23区内でした。けして田舎だと決め付けないよーに。
思い出してもらえば分かると思うけど(思わず目を細め遠い目をしてしまいそうだ。。)
殆どのケースで給食は透明瓶に入れられて各小学校に配給されたのはご存知でしょう。
今もこのスタイルだろうか?とにかく80年代中期の23区内は、殆どこのパターンだったはず。
そして、同じ牛乳が毎日送られてくる=同じデザインのふた(紙製)に、何の面白みもない。
と思う人も多いかもしれない。だが、実は違う。少なくともうちの学校では、確かに大部分
特定の銘柄の牛乳で固定されていたが(確か「名糖」とかいう牛乳だったか?)、日によっては
変則的に「森永」だの「明治」の牛乳瓶が配給されてきたのだ。
この場合は、かなりレアな品物となった。ビックリマンで例えるなら「天使シール」の更に
上を行く代物だ。
そして、ビックリマンの「キラキラシール」以上に価値があったのは、コーヒー牛乳のキャップである。
思い返して頂きたい。給食でも数ヶ月に一回は「給食スペシャル」→勝手に名づけました。
の如くスペシャルメニューが配給されたのを覚えているだろうか?例えば「手巻き寿司セット」等である。
ただの寿司では無い、自分で海苔を巻いて作って頬張るのだ。自分は、どういう訳か
この手の「自作給食」には滅法弱かった。楽しみながら食す。これぞ究極の極み。。。(なんのこっちゃ)
もっとも、この「自作給食」は皆、至福の一時のようにも見えたが。
とにかく、この「給食スペシャル」は、大概年末や夏休み前に配給されるケースが多かった。
夏休み前といえば、児童達はワクワクではちきれんばかり(→なぜグラビア用語を使う??)のテンション
だった。ただでさえ、それに加え「スペシャル給食」と来れば、20年近く経ってもまだ明瞭に記憶に残っている。
そして、「スペシャル給食」に付随して大概飲み物も意表を突いた形で提供された。
例えば「紙パック牛乳」がそれだ。しかし、キャップコレクターにとってはそんなもの眼中に無い(死語をつかってもーた)。寧ろ「コーヒー牛乳」こそがその真価を発揮する。
勿論その味もデリシャスなのだが、そのキャップにこそ「キラキラシール」以上の価値を見出せるのだ。
当時学校では、各教室に「ふたはがし器」みたいなものが用意されていた。要は針のついた楊枝である。
それを刺して取る要領。しかし、生粋のハードコアなふたコレクターは(なんじゃそれ)、そんな道具は
当然ご法度である。なぜなら「穴」がついてしまい、品質価値が下がるからだ。
いってみりゃ、消印の付いた切手は価値が低いというようなもんだ(。。びみょーに違う?)
それで、爪を使い開封するというのが、最もふたに損傷を与えず、クウォリティーを保つ。
という公式がコレクターの間での暗黙の常識となっていた。
しかも、開封する時には、最小の被害に留めるべく、慎重に慎重にはがし、外周にちょっと傷がつく程度
が理想なのだ。
そんでもって、数百枚のキャップコレクターは児童の中でも一目置かれた存在になり、
足が速い奴やファミコンが超人的な奴、喧嘩が強い奴、、程の突出性は無くとも、
マニアの間では密かに神に崇められるような世界そして人物が牛乳キャップコレクターの間で
確かに存在したのだった。。(くだらないネタなのになぜか伝説的文章に書きたがる自分も馬鹿だなぁ)
とにかく、「牛乳キャップ」に歴史あり!(なんのこっちゃ)
少年時やたら持久力があった訳
持久走には、やたらと自信があった。
短距離でもクラスでリレー選手の補欠(まぁ、補欠というのが微妙っちゃ、微妙だけど)選手になるくらいの力はあったのだけれど、
一般的に言われている事実として短距離は、言わば天性の物である程度の努力で伸びても劇的とまではいかない。ベンジョンション・カールルイスが徒競走で少年時代下位だったとはとても思えない。
だから、短距離に対してそれなりのプライドがあったのだが、
長距離においてもまたそれなりのプライドがあった。もっとも、それは短距離とはタイプが異なっていた。
長距離もまたクラスで5本の指に入るかはいらないかというそこそこの力は、あったのだが、それ以上に長距離に対して思い入れがあったのが、「やった分だけ結果に反映される」という部分にあったのかもしれない。
それも、自分が持久走が小学生高学年になるにつれて比例するように伸びたのは実は理由があった。練習らしい練習なんてしていなかった。
キーになるのは「自転車」だ。。。
ずばり、自分は当時自転車に乗れなかったのだ!正確に言うと
補助輪無し自転車。
元々自転車に対して苦手意識があったという事実もあるのだが、よりによって両親から買い与えられたのがママチャリであったという事実もある。
当時(80年代中期~後期)は少年たちの間でギア段変則付き自転車が流行っていて、それを乗りまわしている奴は仲間からも一定の羨望の対象となった。
それも、今で言う所のタブのようなものをカチカチして変速するタイプではなく、前後に長細い形をした6段程度の変速機だった。上手く説明できないけど、パイロットがアクセル代わりに前後に倒すタイプと言えば解り易いか?
とにかく、それが物凄く当時クールに見えて、自分のままちゃりに対してコンプレックスを持っていたのも乗れない理由に加えて輪をかけた。
そんな事今思うとくだらないどうでもよい理由だったのだが、少年時ってそういうどうでも良い事が時としてとんでもないコンプレックスとして涌き出てくる。
例えばランドセルがそうである。ランドセルの背の部分が白色のクッションになっているのは皆覚えていると思うけど、自分の背の部分はやや黄色を帯びていた。しかもそのランドセルが当時の値段で1万もしない比較的安いランドセルで自分の中で「黄色い背クッションをしたランドセル=安物←この時点でわけわからん」という訳のわからん公式を生み出し、あれよあれよとコンプレックスとなっていった。
一番警戒したのが、帰りの会←懐かしい。 で皆で後ろにあるロッカーにランドセルを取りに行くときである。
その拍子にランドセルの背を見られないとランドセルを伏せたまま机に持っていく自分がいた。可愛いと言えば可愛いが、なんか馬鹿だよな。。やっぱり。
終了して背負ってしまえばこっちのものなので、帰りの会が終了して背負う瞬間も冷や汗たらたらものだった。
今考えるとあの思考は一体なんだったのだろう?と思う。
まぁ、確かに少年時代には口笛が出来るか否か、或いは指をぽきぽき鳴らせるが否か、或いは喧嘩の時ベランメー口調ができるかどうか
という、くだらない事に対して絶対の執着があったのだが、
それらはまだ可愛げがある。
ランドセル事件は、未だに理解不能だ。
もっとも、今悩んでいる事も数十年経てば、「なんて下らんことで」と思うような気もする。
ちょっと話しが逸れたが、自転車ネタに戻すと、ままちゃりというのも要素の一つだったけど、小学生中学年~低学年としては悲劇的な24インチの自転車を買い与えられた。しかも自分は身長が低いぶるいだったもので、足がつかない。。ただでさえ、自転車が苦手なのにそんな足の付かない自転車乗りたくも無い。。。。
という悪循環の上に悪循環という上塗りで自転車恐怖症に陥ったのだ。
が、しかしこれは、悪いことだらけでも無かった。
つまりはだ。小学生の時はちゃりんこは絶対必需品であって、何をするにでも移動はちゃりんこで、「秘密基地に行こう。あいつの家に行こう。駄菓子屋に行こう」何をするでも移動はちゃりで、大概複数人数で移動する訳である。
自転車を持っていないと言うのは=行動を共に出来ない=友人を失う。。
という公式が成り立ってしまう。正確に言うなら乗れないOR持っているがださい。というべきか。
あいて方の自転車に荷台?のようなものが付いていて二穴できれば難を逃れられるが、例のクールな変速機付きの自転車が猛威を奮っていたわけで、当然それに荷台がついている訳も無い。まぁ大概ステップ(うちの地域では六角とよんでいた)という後輪車軸に付属している棒に立って乗る方法もあるが。
過去にすべって車輪に足を巻きこんだというお馬鹿なトラウマに加え、
あの姿勢つまり直立不動で立ちノリし続けると、足がプルプルしてとても長時間耐えられない。そこで
結局自分なりに編み出した究極の選択は、自転車集団にまぎれてどこに行くでも自分だけダッシュして目的地まで到達するという事だ。
最初のうちは、あいても自分のペースに併せてくれていたが、日数が経過するといい加減自転車ペースになってくる。おまけに、「あの店何時までだよ!」という不測の事態になるとスーパーペースに自ずとなる訳だ。
自分もなじみの無い場所を走っている時、取り残される=迷子になる
という致命的な公式を恐怖するが故に是が非でも必至こいてもうダッシュ追撃を噛ましたのだった。
小学校に入りたての頃は、長距離走に関して言えば、けつから数えた方が解り易い順位だったが、年長になる事にあれよあれよと長距離走の記録を伸ばした。
それを支えたのは、紛れも無く「苦肉のちゃりんこ追撃手法」だった。
後に大学受験や資格受験で追いこまれれば追いこまれるほど快感を覚える、ちょっといっちゃってたサディスティックは、
実はこの時点から開花していたのかもしれない?
ファミコンと手相
丁度、我が家でもようやくファミコンを購入することが許され(視力低下を懸念して中々許しが降りなかった) 購入したわけだが、
丁度幸運なのか?ドラクエ1が発売されたばかりの頃だったんで、 自分のゲーム=ドラクエと共に過ごした感じだった。
まずゲームをするにしても、ファミコン本体を購入しなければ話にならないわけだが、 その本体を購入したのも普通の購入じゃなくて、世間で当時はやっていた「抱合せ販売」 つまり、ソフト数本とセット販売。という方法で購入した。
しかも、そのソフトは必ずしも売れているソフトという訳じゃなく、しょぼいソフトが必ずついてくる傾向があった。なぜか自分はその「抱合せ販売」セットを買ってしまった。子どもとは言え、まんまと戦略にはめられた気がする。 それで手に入れたソフトが「スターソルジャー」「ゲゲゲの鬼太郎」ここまでは許せる。そして「ハイドライドスペシャル」これは、いただけないな。。 をセットで入手したわけだ。
結局どういう訳か最後まで全クリしたのは「ハイドライド」だった。 ハイドライドはどちらかと言えばクソゲーの範疇になると思うけど、なんかめちゃ楽しい訳じゃないのに、むきになってやり遂げてしまう。そういうゲームってたまにあった気がする。
「スターソルジャー」も当時、高橋名人が(知る人ぞしるでしょう)16連射ブームを巻起こして、当時高橋名人VS毛利名人 という今考えるとさぶいけど、そんな映画が全国上映される程人気が沸騰してた記憶がある。 ハドソンキャラバンなんていう全国行脚シューティングゲーム企画もあったし、しまいには「高橋名人の冒険島」なんてゲームに主人公を登場させてしまうまでに至ったもんだから、もう大変。あのゲーム何気に面白かったけど。。
学校じゃ、「スォッチ」(名前違うかも)なんていう連射数を競う小型おもちゃが流行して、学校全体で禁止条例ができる程過熱したもんだ。
今の子どもはこんな単純なゲーム誰も目に留めないだろうけど。。ある意味平和だったんかな。そこで、ある日、ロング定規のはねかえる力を利用して、連射数が伸びる方法を編み出した奴がいて、たちまちその手法が伝染。またたくまにハイスコアが更新された。けれどはっきりいってそれは反則技だったわけで、誰にも尊敬される訳も無い。 そして「こすり連打」「16連打」「ピアノ射ち」など数々の名文句を編み出した毛利名人&高橋名人が引き続き人気とリスペクトの対象になっていった。
定規連打などもっての他だった。けれど一番速いのはやっぱ定規射ちなのよね。 それと、こすり連打は、体に染み込むとファミコンのコントローラーのボタンをぶっ壊す可能性がかなり高く。実際壊した。けど、コントローラー買う金も無かった訳で、効かなくなったAボタンを指の腹の堅い関節部分に豆ができる程、我慢してプレイしてた。今考えると超御馬鹿と思いつつ、健気だったな。と思うのだ。
大人の今や何か壊れたらすぐ買いかえる自分がいる訳で。。
そして、今でもふとした瞬間。中指の第一間接のコブを見る度小学生時代で利用していた鉛筆でできたコブだと懐かしむ一方で親指の第一間接にできたコブを見ると、ファミコン時代にできたコブの名残だと妙にノスタルジーに浸るのである。。
そしてくすり指の付け根には、幼少時に大怪我した縫合の跡が。 手のひらの手相で未来が分かると、良く言うが。
対して自分の指先は、過去が分かる、言わばバイオグラフィーと言った所かな。
続 九死に一生事件
飛行機おっかけました事件
生存率50%
これもまた物心がつく前の事だったので、
お袋から後に聞いた出来事でした。
多分自分が3歳位の頃だっただろうか?
当時(今でも)手先が器用なのが自分の自慢で、
今も尚、楽器を弾いたり、キーボードの早撃ちも結構好きだったりする。
しかも器用なのは、何も手先だけとは限らない。
つまり
足先
も、である。
今でも、屈むのが面倒なとき、新聞紙や小物類を拾い上げるとき、足の指を使うのだ。つまり親指と人差し指(足の指に人差し指というのもおかしいが)の間をうまく使って拾い上げるのだ。
邪道と言えば邪道だが、ま、いいでしょ。
問題なのが、この器用さが幼少時代死へ直面する事になったそうだ。
そんでもって、話を元に戻す。
当時3歳位の頃アパートの7階に住んでいて、昼間お袋と自分しか居なかったらしい、そしてお袋が家事で台所で用を済ませていたとき、
ふと、ベランダに振りかえって仰天していたようだ。
つまり、
ベランダの柵から体の2/3以上乗り出した状態の
自分がいたらしい
お袋は、速攻で飛んできて自分もかかえ上げたそうだ。
後に聞くところでは、なぜ1m以上ある柵を乗り越えたかというと、
どうやら足の指を器用に手すりの棒に挟んで登っていったそうだ。
しかも、またどうして登っていったかというと、どうやら上空に飛行船が飛んでいた様で、それを追いかけるうち自然と柵を乗り越えたそうな。
体半分以上出ている状態で、よく落ちなかったもんだな。。。と
今更思うのだった。
もし、落ちてたらほんと、足の指を恨んでいたでしょうな。
。。。。。。。。。。
やばい、ついにネタが無くなった。。
でも、これからも基本的に80年代路線で行くので宜しく。
激!九死に一生事件
かなりいい加減野郎ですんまそん。
という訳で九死に一生事件の続編
第二位 銀行強盗入っちゃいました事件 死亡率(拉致率)5%
今は別のところに住んでいるけど、自分が少年時代は東京下町界隈に住んでいた。そして我が家では決まって正月お盆になると田舎に帰省する習慣があったのだ。
事件はその時に起きた。自分のアパート確か10階建て位だったと記憶しているがその隣にある銀行に強盗が入ったのだ。我が家が帰省している最中に、その犯人が犯行に成功したか否かは覚えていないが、とにかくその犯人は逃走して因りによって、我が家のマンションの中へ逃走したとの情報が入ったのだ。。。
そして後に近所の人の話で判明したのだが、我が家に犯人が潜伏したのでは?という誤報が錯綜したようだ。帰省するにあたって、我が家はなぜか?カーテンをしめる習慣があって、警察がそれを怪しんだそうだ。
ま、それはさて置き、自分が田舎に帰っていて幸運だったということ、つまり自分が幼少の頃はコンクリートジャングルで育った訳で、遊び場といえば、そのマンションの非常階段で近所の坊主達と戯れるのが日常の選択の一つだった。犯人もまたその非常階段を駆け上がったという情報もあったそうだ。
だから日常的に遊んでいた遊び場にいつものように自分たちが戯れて犯人と鉢合わせになったら。。想像すると結構危険極まりなかったりするのだった。。。 つづく。
自伝的 過去の九死に一生 事件
とまあ、愚痴はこれくらいにしておいて。
さっきふと思いついたので書いてみた。。
たまにテレビでもこういう企画が放映されるけど、自分も振り返ると大なり小なりそういう経験があったなと思ったりする。
ちなみに、これは私の記憶じゃない、そういう経験の大半がどういう訳か、物心付くかつかないかのころにまとまって遭遇しているので、主に伝承形式(家族から)で聴いたものだ。
ちなみに、そのまんま記述したらつまらないので、勝手にその遭遇した時の生存率(危険率)も物差しに作ってみた。今だからこんなおちゃらけた物差し作ってるけど、やっぱり当時は笑えなかったんだろうな。。
ちなみに、今回は80年代企画とちょっとかぶってないかもしれないけど、自分のジコマンに免じてご勘弁を
ランキング
第3位
兄貴にバックキック事件
死亡率1%位?
もう15年近く前なので、記憶も曖昧だけど、多分その事件の直前にいさかいがあったのかもしれない。その後平穏を一時的に取り戻し?自分は、テレビゲームをやっていた(多分高橋名人の冒険島だと思う)時、後から不意に兄貴のキックをまともに受けてしまった。問題はそのバックキックというより、その間接的なもので惨事に至った。つまりその衝撃でまともに前へ、つんのめりテレビに頭部をぶつけてしまったのだ。
というのも、まだ当時テレビがチャンネル手動でがちゃがちゃ回すダイヤル方式だったもので(我が家ではガチャガチャテレビと呼んでいた)
その取ってが諸に頭頂部にヒットしたのだ。
その時の痛みもさることながら、その出血量が半端じゃなかった。自分も狂った様に発狂していたが、主にその原因は、自分の鮮血に対して腰抜かしたからだ。
当時、不運にも親が不在で、兄貴もその予期せぬ出血量と自分の発狂ぶりに、驚き何を思ったのか、兄貴の取った行動はティッシュボックスを私に放り投げて、ふすまをしめてしまった。。。。(今考えると小学生とはいえ、幾ら血迷ってもむちゃくちゃな対応だな)
そんでもってその後の記憶が欠落している。数時間後、自分は目覚める。
どうやら寝ていた様だ。寝ていられるという事は、大事じゃなかったのかもしれない。それにしても、徒歩30秒の所に大病院があるのに、なんの治癒もせず自然放置というのは、ある意味野生児なのだろうか。。
当然帰宅した、親は部屋の血痕後に仰天していたが。。。
つづく。
激80年代!ビックリマンに隠れたグッズ
ビックリマンだったのは当たり前だった。
けれど、あの頃はビックリマン以外にも色々なコレクターグッズが流行っていた気がする。
全国的に見てやっぱり2番手に来るのが
ラーメンバーシールだろう。。少なくとも関東圏では。
多分これはビックリマンに触発されて作られたのだと思う。
従って、ビックリマンの数年後で密かなブームに至ったのであった。
ただ、ビックリマンが30円なのに比べ、確かラーメンバーは50円以上した
記憶がある。
おまけに、当時かなりの甘党でその名を轟かせていた(自分の中で。。)
私としては、ビックリマンは美味しくても、ラーメンバーはちょいと気が引けていた。。
ある時は、ラーメンバーにお湯をぶっかけたりと、いかにラーメンバーを愛そうかと、こちらも親身になって愛情を注いだのだが、やはりラーメンバーはラーメンバーである。。やはりカップラーメンには適わないのだ。
しかも、シール買占めのため、ビックリマンは10個連続食いできても、ラーメンバー10個連続食いは、罰ゲームでもご免である。夕飯食いきれなくて雷落ちるのは目に見えていたし。。
ただ、幾らビックリマンの勢いが多少落ちた時に登場したのが、ラーメンバーのある意味好機だったとは言え、これだけ密かなブームを支えたのは、やっぱりあのシールの斬新性だろう。ヘボイ(80年代用語)シールでも、2枚重ねという趣向を凝らしており、1枚目弱そうなシールでもめくってみると大逆転、スーパーシールが埋もれているパターンもあり、その感動は、かなりのもんだった。
ちなみに、ビックリマンと違ってシール毎に明確なパワーメーターがついていたのは、皆知っていると思うが、あれのお陰で客観的にそのシールの価値が判別できるわけ、
つまり、例の「取引会議」でこの指標のお陰で、かなり会議がスムーズに進むわけだ、ただ、手に汗握る超絶壮絶腸煮え繰り返り、心臓飛び出すような、スーパーデンジャラス(過剰表現ご了承ください)な駆け引きはビックリマンに、1歩譲るのだった。
当初は、友達の家でビックリマンを持ち寄り、友のアジトにて秘密結社的ハードな円卓会議を日々過ごしていたが、いつしかラーメンバーシールを持参する者も投入された、しかし基本はビックリVSビックリ、ラーメンVSラーメンの闇取引が多かったが、終盤に差し掛かると両方のシールが入り乱れて、壮絶なる総力戦に持ちこまれるのだった。。。。
こうなると、ある意味ビックリマン以上の瞬時な的確判断を要求されるわけで、一瞬の隙を許すと悪魔シール大量持参で、我が家に帰還するハメになりかねない。しかし、一方で、この時期になるとシールに興味が無くなり、戦意喪失で大量に自分の蓄えておいたシールをばらまく奴も出始め、そんなこんなで我々の闘いは、泥沼を呈し、一気にブームが下火に。。。。
※尚、臨場感を増すために、戦場用語を多用した事をご了解ください(汗)
それと、一瞬の隙といえば、当時ビックリマンシールのキラキラシールを例の「円卓会議」でゲットし、意気揚揚と我が家に帰還し、改めてシールをニヤニヤしながら眺めると、あることに気付くのだった。。。
裏にマジックで名前が書いてある!
しかも油性で。。。
だから、一瞬の隙も許されないのだ。
尚、この闘いにキャンセルという文字は無いのである←しつこい。
この頃は、ファミカセの裏にも名前かくやつがいたりして、密かな「マジックブーム」であったのも確かである。
壮絶!ビックリマン会議
超個人的懐古主義的ページ。
皆知っていると思うけど、徳さんが司会のこれまた懐古的音楽番組「速報 歌の大辞典」←多分微妙にタイトルが違う。
そこで、一企画としてビックリマンチョコシールがスポットにあたっていた。
ビックリマンと言えば自分の超リアルタイムな世代だったので、番組内での「チョコだけ捨てちゃいました」ネタは、とても記憶に残っている。
あの頃(1986~8辺り?)は、本当にやばい位のビックリマンフィーバーで、キラキラシールは特に価値があって、スーパーゼウスなどは、他校までその話が風の噂のように流れてきていた。後にビックリマンアイスの再発によってそのレア度は、落ちていく訳だけど、当時は2番手に来るのがシャーマンカーンというキラキラシールだった。シャーマンカーンでさえ、自分の学校に所有者がいようものなら、何処からとも無く情報が行き渡り、「放課後あのシール拝みにいこうぜ!」という話題が日常的だった。
かくいう私も、その一大フィーバーに巻きこまれた一人で、上記のようなレアキラキラシールは所有していなかったけど、価値があまり無いキラキラシールや悪魔シールなどは大量に持っていた。
そして、ビックリマンシールときて、最も密接かつコレクターには死活問題的キーワードになるのが「ビックリマン取引会議」である。何の事は無い、今私が適当に思いついた名称だが、当時はまった人は、何となく理解できるかもしれない。大抵放課後誰かサンの内に上がって、ビックリマンシールの取引を始めるのだ。人数は2~多いときで5人以上だった。2人の時は、将棋を指すスタイルで向かい合い、人数が多くなると円卓会議的スタイルに変形する。
正に、その場所は戦場であった(かなり誇張してるかも。。)。正にマインドゲーム!駆け引き!相手が予め、本日交換したいシールを提示してくる。そして一枚一枚、こちらの提示するシールと見比べ和解まで、いかに持っていくかが勝負である。勿論相手の顔色を伺ったりもする。最初にわざとへぼい(おっとこれも死語か)カードを出して段階的にレベルを上げて、相手をかく乱する方法も取ったりとか。。
自分の中では、悪魔シールを最低ランクとして、悪魔2枚分=お守りシール、悪魔4枚ORお守り2枚=天使1枚、天使複数=キラキラシールという図式がありそのデータ―を考慮して瞬時に相手の駆け引きに挑戦する訳である。おまけに、レアシールも考慮にいれねばならない。正に、戦場だ←しつこい。。
尚、後で「やっぱ昨日の交換無し」という言葉はご法度である。あくまで男の勝負である。
こう書くと、現在社会生活で飛び交っているビジネス商談も全てはビックリマンが無ければ語れない。あの駆け引き、利益を生み出す駆け引き。。どこか似ている。。そう今地球が回っているのもビックリマンのおかげだと言えるのでは無いだろうか?そんな訳ないでしょーが。。
一番記憶に残っているのが、当時シャーマンカーンを所有した伝説の同級生を我が家に招待し、そのネタで盛り上がりつつ総勢十数名で、秘密的ビックリマン会議を開いた事か?戦士の休息として、母親から配給されたおやつをほおばりつつ、時にドラクエ2という援軍を交えつつ、熱いあつ~いびっくりマンバトルをひらいたのだった。。。
いきなり、こんなに書いてしまって、絶対後に続かないパターンだな。こりゃ。
崩壊型日記だ(汗)
次回から小出しにして、寿命伸ばすダス。
基本路線は80年代で。
