◆番外編
年末、年始は軽井沢の恩師のお宅にお邪魔した。
高速バスで向かい、出かけることは避けた。
のんびりと過ごさせて頂いた。
一方、家のヨメには長男夫婦がずっとアテンドしてくれた。
長男がボソッと言ったそうだ。
お父さんがあの世にいったらこんな感じかな、と。
頼もしい。頼んだぞ😁
◆電車通学
中学3年の1学期に東京都から神奈川県に引っ越した。
神奈川県の中学では「ア・テスト」というものが行われていた。
それを受けていないと県立高校の受験は出来なかった。
ということもあり転校せず電車通学となった。
当時の小田急の混雑は凄まじかった。
しかもノロノロ運転だった。
◆引越し
猫は家につくという。
引越しの日、ドンは機嫌が悪かった。
なんとか探し出し、カゴに入れて車に乗った。
兄の友だちのオンボロ車。
運転するのは岡崎くんだった。
岡崎くんの運転は酷かった。
エンストを繰り返しようやく生田に着いた。
お陰でさらば浜田山などという感慨が湧かなかった。
◆ドンの大怪我
2月の寒い日だった。
見知らぬアカ猫が来てワーワーと大声で叫んでいった。
うちの猫のドンが帰ってこなかった。
どうしたのだろうと心配になった。
夜中にドンは帰ってきた。
血みどろのうしろ足は骨まで肉がえぐられていた。
前足だけではって帰ってきた。
バイクに轢かれたのだった。
◆多摩川の向こうに
川崎市多摩区に家を建てることになった。
最寄駅は小田急線の生田。
父が秘書をしていた椎名悦三郎さんのご自宅もそこにあった。
神田川沿いに住宅展示場があり何度か見に行った。
プレハブが有力だったのだが注文木造建築に決まった。
多摩川の向こう。
以来、東京で暮らしたことがない。
◆冬
冬になると小学校のプールが凍った。
かなり分厚い氷になっていた。
柵を乗り越え歩いてみた。
やってはいけないことだが、やらずにはいられなかった。
畑には霜柱が立っていた。
これもなかに入ってザクザクとやった。
何年かに一度積もるほどの雪が降った。
見慣れた街が別世界になった。
◆夢のマイホーム
永福町の家も浜田山の家も借家。
父はいっとき東急系の会社にワラジを脱いでいた。
その時に青葉台に家を建てた。
田園都市線が長津田まで延びる前だ。
が上司と喧嘩。
独立し失敗。
家は完成前に差押えられた。
父も母も家に執着がなかった。
荒涼とした土地で泣く写真だけが残されている。
◆前略・・・
芋の皮をむくのがカッコよく見えた。
母にむき方を教えてもらった。
家庭科でカレーを作った時にはサブちゃんを気どることができた。
カスミちゃんは可愛いと小学生ながら思った。
ヒデさんはカッコ良く、トシオさんとハンツマさんは最高だった。
あれ?皆さん鬼籍に入られたのか。
◆人生に必要なことはマンガに学んだ?
愛読書は『ドカベン』(最初の甲子園まで)と『野球狂の詩』(水原勇気より前)。
ふと魔がさして姉の『ベルサイユのばら』を手にとった。
面白かった。
全巻一気に読んだ。
フランス革命の知識は全てベルバラ由来だ。
アンドレという名前。
巨体レスラーを知る前までは美しいものだった。
◆70年代都立高校
兄は都立の豊多摩高校。
姉は都立の杉並高校へ進学した。
二人とも制服はなかった。
髪の長さも自由で兄は髪を伸ばしていた。
兄の友だちはみんなひょうきんだった。
姉にはミツバヤシさん、モッサ、エッちゃんという友だちがいた。
時代と土地柄なのだろうか。
みな穏やかな人たちだった。
◆風疹
小学5年の時に風疹が流行した。
がっつり感染した。
1週間学校を休んだ。
もう大丈夫だろう。
なにが食べたい?と父。
ならばと天丼を所望した。
食べたあとトイレに駆け込みもどした。
その衝撃でカラダ中発疹した。
更に学校を1週間休んだ。
病気の時は脂っぽいものは食べるな。
我が家の家訓となった。
◆試練
小学生には通り抜けなければならないいくつかの関門があった。
例えばカエルの解剖である。
虚勢を張って生きていた手前、平静を装った。
しかしいま思い出しても気持ちの良いものではない。
もうひとつは観劇だ。
日生劇場でミュージカルを見た。
日本人が西洋人になり、急に歌ったり踊ったり、野暮なので適応出来なかった。
キツかった。
あくまでも個人の感想だが。
◆おせち
おせちで母が作ってくれるごぼうやレンコンの煮物が好きだった。
土井勝さんのいう通りに作ったのにと母はシワシワの黒豆を嘆いた。
でも味はとても良かった。
オフクロの味を知らない父。
父親の記憶のない母。
二人が自分たちで築いた家庭料理。
兄がいて姉がいて。
あの正月が懐かしい。
◆バブル前夜
六本木ロアビルにVIVIというスポーツクラブがあった。
父は会員だった。
ジムで汗を流し、サウナ&浴場でさっぱりし、レストラン、ラウンジで過ごすということをしていた。
プールがあり何回か行った。
元力士で温泉レポーターの荒勢氏も会員。
父はどの温泉がいいか教えてもらっていた。
◆お風呂当番
風呂を入れるのは三兄姉弟の役目だった。
浴槽を洗い水を入れる人。
水を止めて風呂釜に火を着ける人。
適温で火を止める人。
それをジャンケンで決めた。
ガス管を開き、マッチをすってバーナーに火を着けた。
ボッとかいってスリルがあった。
水をあふれさせたり、にえたぎらせたりした。
◆東京のおばあちゃん
父の友人のスギキさんのお母さんにかわいがってもらった。
よく一人で泊まりにいった。
学生時代、父はスギキ家に下宿していた。
その子どもということで孫みたいにしてくれた。
おうちは成増からバスでいく団地。
すぐそばに軍の基地みたいなものが見えた。
いまでいうとどこなのだろう。
◆バスが速い?
幼い頃、母と出かけた。
バスよりもタクシーに乗ってみたかった。
しかし、母に「タクシーの方が速いと思うかもしれないが、バスの方が速い」と言われバスに乗った。
乗っていたバスがタクシーを追い抜いた。母の言うことは本当だと思った。
京王バスよりも犬がマークの小田急バスが格好よくみえた。
◆変な通院
父は皮膚病だった。
高円寺の皮膚科に通っていた。
永福町から自転車で行った。
皮膚科はドアを開けるとビーッとけたたましくブザーが鳴った。
しかもドアの建て付けが悪く、なかなか鳴り止まなかった。
奥から白衣を着たおじいさん先生が出てきた。
他に患者を見たことがなかった。
特に診察はなく軟膏をもらうだけだった。
何か不思議な病院通いだった。
◆ずるテツ
三兄姉弟にとって冬休みはバクチだった。
朝から晩までボードゲーム(バンカース)に没頭した。
不動産投機の様な内容だった。
兄・哲治には「ずるテツ」の異名があった。
時に正義感の強い姉・みちるにバレて指弾された。
私はといえば大負けし親に泣きつきチャラにしてもらっていた。
◆ガチャガチャ
近所に大場さんというパン、文房具などを売る店があった。
ある日、店先にガチャガチャが置かれた。
家の手伝いや父の肩を揉んで10円をもらっては費やした。
大きなスーパーボールが欲しかった。
が出なかった。
出なかったお陰なのか、ゲームやパチンコに興味を持たずいまに至っている。
◆打ち込んだ人の言葉
桐朋のピアノ科に進んだ友だちがいる。
彼女はとにかくピアノに打ち込んだ。
授業が終われば帰宅してレッスン。
ある日、級友たちが校庭で遊ぶ姿を見た。
私にはこういう時間はないんだと思ったそうだ。
いま彼女はピアニストではない。
毛織物制作に打ち込んでいる。
織物に疲れたら気休めにピアノを弾くの。
それが楽しくてと笑った。
◆昭和ミステリー?
父に連れられて母と池袋のデパート最上階の中華料理店に行った。
建設中のサンシャイン60(1978年竣工)が見える個室に通された。
平松さんという父と同年配の男性がいた。
平松さんはにこやかな楽しい人だった。
料理が運ばれるたびに料理長が説明にきた。
恰幅のよい中国の人だった。
料理は素晴らしいものだった。
料理長には威厳があった。
父は当時代議士秘書だった。
その料理長を日本に招こうとしていた。
料理長は中国要人の専属料理人だった。
家に帰り平松さんのことを尋ねた。
「公安警察だ、平松というのも本名じゃないよ」
「公安?」
「スパイさ」と父は言った。
料理人ならば要人の話を耳にする事があるかもしれない。
公安ならばそういう人物が日本にいたら興味を持っても不思議ではない。
父はカムフラージュのために妻と子どもを同席させたのだろうか?
その料理長が日本で腕をふるうことはなかった。
日中国交回復から数年後のことだ。
◆サイン色紙
東京生まれ、東京育ちの広島カープファン。
中でも山本浩二選手が好きだった。
ある日、父が山本選手のサイン色紙を持ち帰った。
飲み屋で隣り合わせた人が広島駅長でくれたというのだ。
しかしその駅長は失踪中の人だった。
後日、その居酒屋に行き父はその事を知った。
父に会ったその日、色紙を渡して駅長はどこかに姿を消したというのだ。
陽気に酒を飲み、おー息子さんはカープファンか、と色紙をくれたそうなのだけど。
◆クリスマスの思い出
クリスマス。
ちゃぶ台に母が作った料理が並べられた。
父からシャンペンの瓶をわたされた。
メリークリスマス!と栓を開けた。
瞬間、真っ暗になりガラスが降ってきた。
コルクが真上の蛍光灯を直撃したのだ。
料理は台無し。
仕方がないさと父、母、姉。
バイトから帰った兄も笑っていた。
今もなぜかシャンペンの栓を抜く役が回ってくる。
以降、失敗していない。
◆取材
杉並区に清掃工場を作るなという運動があった。
地元について調べるという課題が出た。
社会派小学生なので現地に行った。
が、反対派はいなかった。
仕方なく赤ちゃん連れのお母さんに話を聞いた。
他所の区に捨てさせてもらうのはね。ダメよね。
というわけで高井戸に清掃工場ができた。
◆腹も身の内
♪リンリン、ランラン、リューエンというCMがあった。
食べ放題の中華料理の宣伝。
一度連れていってもらった。
女子のバレーボール部の選手たちと一緒になった。
ボーイッシュな選手たちに「この子かわいい、まだ食べられるの!」と言われ調子に乗って食べ過ぎた。
腹も身の内と知った。
◆トム
父にトムという米国人の友人がいた。
元グリーベレーだと言っていた。
はる子さんと結婚し太郎が生まれた。
兄はトムからベトナムで使ったという水筒などをもらった。
ある日、トムが時間をはかり兄と小学校の校庭を何周も走った。
真面目な顔でgoodと言われた。
初接触外国人は軍曹だった。
◆早ければいいわけでもなく
生後8ヶ月で立ち、9ヶ月で歩き出した。
といってすこぶる運動神経が良いわけでもなく、走るのが速いわけでもなかった。
というよりも早く歩いたためにガニ股になった。
記憶にないが矯正ギブスを着けていたらしい。
遺伝はおそろしい。
長男は7ヶ月で歩き出した。
そしてガニ股になった。
◆思い出のドーナツ盤
蓄音器というほどは古くなく、ステレオというにはおこがましいものが家にあった。
ドーナツ盤もあった。
覚えているのは「帰って来たヨッパライ」と「圭子の夢は夜ひらく」だ。
自分のこづかいで初めて買ったのはダウン・タウン・ブギウギ・バンドの「スモーキン・ブギ」だ。
変なガキ。
◆父親とは
高校生の時、兄は原付の無免許運転で捕まった。
友だちの原付にまたがった所に警官と出くわしたのだ。
父と警察に行った。
兄の友だち数人がいた。
「ごめんな。これから乗りたがっても断ってな」と父は言った。
父は兄を叱らなかった。
この件はこれきりだった。
なんか父親だなと思った。
◆父のこだわり
料理などしない父がすき焼きだけは差配した。
肉は牛の赤身でなければいけない。
脂身はもってのほか。
煮るのではないと割り下は使わなかった。
あと「水菜のばりばり(はりはり)」。
水菜と油揚げの鍋。
鯨のコロが必要と下北沢あたりまで探し回った。
鯨が食卓から消えた時代だった。
◆母との攻防
兄姉と違い勉強が苦手。
中2の時、勉強しろしないで母と言い合いに。
捨て台詞を吐いた。
気まずさに詫びの手紙を書き猫の皿の下に置いた。
朝、枕元に母の手紙。
「ドン(猫)の皿の下に置くなんて・・・」。
ついに諦めたなと思った。
が、母はしぶとかった。
夏期講習が申し込まれていた。
◆おから
浪人者とヤクザ者が旅をする時代劇があった。
浪人者は「おから」が大好物で、父もそれを見習って「おから」で一杯やりながら見ていた。
その影響は色濃くスーパーの惣菜売り場で「おから」を見ると必ず買ってしまう。
母に「おから」作りを教わったことがある。
その手間がかかることに驚いた。
◆ルーツ
元は赤松という姓。朝敵となり赤を青、松を木に変えたと父はふざけて言っていた。
姫路だとか、前橋だとかルーツははっきりしない。
青木という姓は朝鮮半島から来た家に多いと言われた事もある。そうかもしれない。
確かなのは父母が愛情を注ぎ育ててくれたということだ。
それでいい。
◆二眼レフカメラ
家のカメラは変な形をしていた。
ファインダーをバカっと開いて覗き込むものだった。
形からして動いているものを撮るのは向いていなかった。
しかし何か骨董品みたいな味があって、触っているのが好きだった。
さて、この写真、母がカメラを手にしている。
どのカメラで撮ったのだろう?
◆貸本屋
西永福に貸本屋があった。
木造のボロい店にくたびれた本が置いてあった。
いつみても客不在。
好奇心にかられて一度店に入った。
意地悪そうな婆さんが出てきてケンモホロロだった。
後になって椎名誠氏のデビュー作『さらば国分寺書店のオババ』を読んだ。
あの婆さんそのものだった。
◆天津麺
兄は弟と違って勉強ができた。
が、試験になると体調を崩したり運がなかった。
なぜか合格発表に小学生の弟を連れて行った。
横浜国大にも行った。
結果は不合格。もう一年の浪人がきまった。
あのドラマは見ないなどの来年にかける決意を聞きながら横浜駅まで歩いた。
横浜駅ビルの中華で食べさせてくれた天津麺が美味しかった。
◆スキーツアー
ある冬、母によって知らない小学生どうしがスキーに行くツアーに放り込まれた。
宿舎で「はじめ人間ギャートルズ」を見た記憶がある。ならば小4の頃だ。
朝から夕方までスキー。
大部屋で雑魚寝。
今でもこういうツアーがあるのだろうか?と思ったら、あった。
◆校庭開放
小学一年生。
日曜日に学校へ行くと少なくない児童が遊んでいました。
高学年のお兄ちゃんたちが野球をしていました。
まるで地域のヒーローを見るような思いでみつめていました。
その一人が呉くんでした。
ある日、その呉くんが声をかけてくれました。
なんと仲間にいれてくれたのです。
小5の呉くんは1年坊主にこう言いました。
「あいつがトンネルしたらそれを捕れ。大切な役目だぞ」と。
当時を振り返って父母が笑っていました。ちっちゃいのが真剣な顔で外野の後ろの方にいたと。
学年もまちまち。
たまたま集まった仲間が野球をする。
field of dreams そのものでした。
四年生になりました。
学校に行くと騒ぎが起きていました。
校庭で野球をしてて振ったバットがそばの子の顔にあたり大怪我をしたというのです。
以降、校庭での野球は禁止。
上級者になったら、呉くんがしてくれたように、小さい子と野球をと思っていました。
が、かないませんでした。