1/10に「鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎」という映画をついに観たんですが、これが神と仏の救いを犠牲にした良脚本、良演出で最高の作品でした。


水木とゲゲ郎のバディものとしての魅力の話もあるのですが、今自分が語りたいのは作品の内包する寓話性と言いますか。


作品の舞台が昭和31年の因習が渦巻く哭倉村(なぐらむら)に主人公の水木が日本財界を牛耳っていた龍賀の当主の葬式に会社からの密命を帯びて向かうのが始まりなんですが、この哭倉村の実態というのが一筋縄では行かないんです。


物語が進むにあたって哭倉村のおぞましい真実が明らかとなっていて、SNSで「因習村だ」という感想も目にしたんですが、このお話の哲学的に「因習村」のブラックボックスに押し込めていいものかと思いました。

というか都会に憧れていたある人物が内心では「この村も東京も同じ、どこにも自由がないのはわかってた」って吐露したあたり因習村の範疇に収めるべきではない内容なのだという製作陣の意図があるのは明白だと思いました。


んでこれは他の方も薄々思ってることだと思いますが、真の黒幕を除いた色んな人物は吐き気を催す邪悪でもありながら村の有り様によって変貌した被害者でもあるのではないかと。

中ボスだったあの方はもちろん、初見ではその末路にひたすら胸を痛めるしかなかったあの子ですらあのままでは、東京に行けたとしても中ボスと同じく他者を省みなくなり破綻したのではないかという考察も見ました。


普通は典型的な悪役を観るたびに溜飲が下がる展開を望み、事実中ボスも流石に人の命を奪いすぎたのですが、真の諸悪が強いた搾取の構造を考えると、軽々に一般人の精神から離れた異常者という見方も危険ではないかなと思います。

その象徴が先ほど言ってた「あの子」、本当に救いがなかった可哀想な子なのですが、改めて見返すと恐ろしい一面もあって、それが中ボスの「あれほどの悪行をやりながらも異常者ではない」というキャラクター評価に自分はつながりました。


すこし話の寄り道しますと、進撃の巨人という作品に「順番」という言葉があります。最初にこの言葉が出てきた時、壁の中が舞台だったんですが、舞台が壁の外へ移った時想像以上の重みを持った言葉だと思い知りました。

もう少し詳しくいえば自分がならない、なるもんかと思ってた役割を自分が担ってしまい、あまつさえ後の世代へ負担を強いてしまうという象徴的な言葉です


もうひとつホアキン・フェニックスの「ジョーカー」PVについてYouTubeのコメントだったかに「自分がジョーカーになるかもしれないということより、自分がジョーカーを生み出す要因の一部になるかもしれないことを考えた方がいい」という言葉を思い出しました。


話を戻しまして、こうやってスケールがデカイながら皆がみな純然悪というタイプでないはずのキャラたちぞばかりです。スケールを現実的なものにあてはめると「ニュースなので見る不祥事に手を染める人の中でも自分は手を染めずに自制できると言い切れないケース」などもあると思います。そこがあの作品のキャラたちの一筋縄ではいかない所でもあるはずです。


ただし真の元凶というやつは問答無用で別問題です。戦争や資本主義の歪みの象徴として生み出された悪役なためです。

実際主人公水木がかつて経験した特攻を指示した人間も、良いように部下の命を使い捨てながら、戦後甘い蜜をすすったという側面を強く出してました。

虐げた命も「いい服いい御殿いい酒いい女」等の自分の美味しい思いのためという生粋の悪でした。

久しぶりに気分の悪くなる悪役だったけども、水木しげる100周年の際の水木しげるの幸福論と対極の存在としては必然だったと思います。


村の被害者であり加害者のような人もいれば、黒幕のように本当に悪辣なものが両方いるのがこの世界。

被害者として搾取されるのも当然嫌だけども、社会でやっていくにつれ搾取する加害者側に回ってしまう。

その可能性に行き当たりさえするのが本作の人物たちの怖いところでもありました。

自分はどちらに回るのかを考えてみると案外作中唯一純然たる被害者の人物になると言えるかというとちょっと自身ないかもです。


そのおかげで出てくる妖怪たちはただの萌えキャラでございました。