論の吸収、試してみて、結果を見てみる
そして集まった論の集積による新しい「人間」の形成
そういう生き方をしたい。
そうして蓄積した結果がいまの「私」であるという状態を作りたい。
その核心をもって生きていたい。
その「試す」ことを自身で禁じてしまってはおもしろくない
その場のルールや環境に縛られて試せないこともしばしば、それをどうするか
それが一つ、難しいところだ。
▼みつけた面白い「論」
『〈人間も含めて自然界の動物は、体が求めるものだけを無意識に食べているだけで栄養バランスが保てるようにプログラミングされていると言っていたのは丸元淑生さんだったでしょうか。自然に備わったその感覚を狂わせるのが飽食習慣なのでしょうね。〉
昔なら果物を摂ることでビタミンCを摂れたが、今は甘いものを食べろという間違った指令だけが残ったという。人間の本能が壊れているのだ(『丸元淑生のシステム料理学』参照)。』
これは「あるがまま」が「理にかなっている」という「本質」がとてつもない魅力。
動物的であることは、しばしばそれ自体が非合理なものとして否定されがちだ。
だが、それがもつ合理性に目を向け、それを失いつつある「今」を問題提起する。
そして、「理性的」「科学的」に「本能」を取り戻そうとする取り組みを解くのだ。
そして「本能」が「正しい」と答えをくだす。「うまい」のだから。
▼自分は何をしたいのか
本能や民間伝承と科学的なロジックをつなげたい。これは民俗学、社会学に通じる部分かもしれない。
現代の「科学」「経済」中心の価値観、日本社会全体の主義と、それが置き去りにした、旧パラダイムの間の橋渡しだ。
ここでいう旧パラダイムは、内山節が『日本人はなぜ狐に化かされなくなったのか』で解く「精神世界の断絶」以前のもの
具体的には「高度経済成長以前」のそれだ。
旧パラダイムにこそ、人間味や息づかい、人間の等身大の生き方とそれによりそう考え方、生き方があるように感じてしまう
逃れられない魅力を感じる。
これは一体なんなんだろう。
いいことばかりではないはずだが、その「良い」側面をあまりにも引き継いでいないように、感じられる
時代が移り変わるというのはどうしようもないことなのだが
この「面白さ」がひとつの流れを作りはしないだろうか