閉じられた意識の内側の世界 | 虚飾を捨てて心に翼を

虚飾を捨てて心に翼を

生き辛さは成長の機会。思いやりの心と自分の本質を大切に。

今の私にとっての「意識」のイメージが、「自分という幅を持った目に見えない円筒の内部」なのでカッコつけたタイトルにしました(汗汗)。

「意識」は自分と他人とを区別し、自分の内側に持っている世界(思考、イメージ、希望、絶望、信念など)を信じ込むことによってそれを現実化している。

その内側の世界を外側(顕在意識の自分や他人)から変えるのが難しい(自己を防衛維持している)。

 

この「意識」という不思議なものについて、しばしば想いを巡らします。

言葉にできるもの、言葉にならないもの、相反する矛盾した想い

人間の頭の中の世界を全部かき集めたら、発狂しないのが不思議なくらい混沌としていると思う。

 

逆になぜ正常でいられるのか?

 

それは正常に保つ仕組みがあるからだと思う。

それは言葉で選ぶということ、忘れるということ、無意識の領域に閉じ込めること、物事に意味付けをするということ、観点を限定する(フォーカス)、わからないものは受け入れないこと、など

そのほか、通常、余計なものは見えない仕組み(あるいは見るものを脳で取捨選択)になっているように思う。

(だから見える人もいる。感じたことを比喩的にイメージしているという解釈もできる。)

 

言葉で選ぶこと

習慣、習俗や場面に合った言葉、自分が安心できる言葉などを選んでいます。

ふと思いましたが、私の不安の一因は言葉選びがへたなこと(習得しなかった)だと思います。

 

忘れるということ

興味のないことはすぐ忘れます。

ふと思いましたが、私が断捨離がへたなのは、「今興味のないものでもいつか興味が・・・」と考えるからかもしれません(笑)。

 

無意識の領域に閉じ込めること

自分で認めたくないこと、自分にとって都合の悪いことは、心の奥の奥に閉じ込めます。

 

物事に意味付けしようとすること

意味づけをするから人生に喜怒哀楽、張り合いが生まれます。反面、意味付け次第では無から不幸を招いてしまいます。

 

観点を限定する

興味のあるものや自分にとって重要なもの、自分にとって都合が良いもの、に自然とフォーカスしています。

 

わからないものは受け入れない

わからないものは自分の土台をぐらつかせるため、自分の精神にとって確かな土台となるものだけを受け入れる。

 

潜在意識と顕在意識は無意識にバランスをとっていると思う。

心の奥に閉じ込めたはずのものが、不意にでてくる。

閉じ込めれば閉じ込めるほど苦しくなり、出口を求める。

 

気になることは自分の問題意識に関係している。

課題(問題意識)が、意識で作った構築物の中心になる部分かもしれないと思う。

課題とは自分が持っている問題で、放っておくと嫌な想いをするもの

突破して嫌な想いをしないようになれるか現状維持かの無意識の葛藤

課題に気づかない現在の意識は、現状の肯定でできている

現状を正当化するための世界観が作られる。

むしろその世界観があるから現状を正当化する。

 

自分の思い込みの世界の一部としての自分を、無意識になぞりながら生きている

思い込みの世界は漠然としている。

普段言語化することもない。

一つあるいはいくつもの強烈な感情が核となって、それを元に頭の中の無意識の思い込みの物語がつくられるのかもしれない。

大雑把に言えば、虚しい世界の中の虚しい自分、楽しい世界の中の楽しい自分、などの物語

 

さらに具現化されたものが目の前の現実

元々持っていた良いものを吐き出すために良い現実を作る。

元々持っていた良くないものを吐き出すために良くない現実を作る。

思い込みによって予め決められた目の前の現実はスタート地点

 

意識が心の中を現実にすることができるように構築されているとしたら、

意識の構造は、人間の体のように、自分で簡単に制御できる部分と間接的に制御できる(思い込んで後はおまかせ)部分がある。

 

すべての生物と無生物がつながった意識(普遍的無意識、ワンネス):

出会うもの、出会わないもの、全体の調整

 

錯覚した「自分」という全体と切り離した意識:

課題を感情で受け取り、これからどうするかを問われ続ける。

 

「閉じられた」と書きましたが、つながっているので「開ける」ことも可能

 

課題は誰もが無意識の世界に持っている。

形はないが元々持っていてなくしたいもの(嫉妬やねたみという感情)をまず形にする

経験で思い出す→無意識から顕在意識に出る→悩み

 

全ては意味づけしたいという性からの思い込み

真実かどうかとか関係なく意味づけした思い込みは、程度の差はあれ確実に現実に影響する。

間違った認識だろうが、勘違いだろうが、体は、それに応じた反応をし、ホルモンを産生し、それに応じた行動もする。

仲違い、嫌悪、幸福、健康、不健康、グループ、争いなど

しかし一つの考えは別の解釈も可能だと思うから、争いの原因となるような絶対視はしたくないと思う。

 

私は、宗教には人間の心を豊かにし、強くする力があることは認めますが、「神様」という概念には強い抵抗を感じます。

何かすごい力が宇宙に存在するのは間違いないと思いますが、食物連鎖という悪魔のような摂理がある限り、一概に良いものとしては到底受け入れられません。

人間の利益になることが動物や地球の不利益に、ある人の利益になることがある人の不利益になる。世の中に争いが絶えないのも当然のように思えます。

人間がある意味一番ひどいのに、善悪を論じることができるという矛盾

 

というのが私の強く思うところなのですが、たとえ正論でも、私にとってどうすべきかの答えにはなりません。

それどころか、「意識」の性質上、楽しくない現実を作ってしまう。

憂鬱にさせる。私の大切な現実の足を引っ張ってしまう。

信じていないのになぜか(普遍的無意識のせいだと思っていますが)バチが当たるような気さえしてしまう。

自分もそう(どころか・・・)なのに、自分だけいい人ヅラしている(そういう人が一番ひどいドクロ)ことに嫌悪感も覚えます(泣)。

 

良い悪いではなく、自分もまわりも楽しいことをする、敵を作らない、仲間の範囲を広げる。

せめて仲間の範囲を「人類」にする。

 

という綺麗事も自分のようなものが・・・と自己嫌悪に陥るので(泣)、

 

何をするにせよ、結果はどうであれ、今の自分にとって「良い」と思いながら行動することを目標にしよう、という結論で締めくくることにします。