今回も、スピリチュアル嫌いな方にはごめんなさいな記事です。
ふとした拍子に、自分の中に、とりとめのない漠然とした感覚がわくことがあります。
それは、自分でもはっきりわからないくらい漠然としたものですが、例えて言うなら、生きることのできない荒涼とした砂漠にいる感覚、あるいは、何をやっても何をしても、全ては虚しいというような感覚です。
この表現も後付けなので、本当にそう言う感覚なのかどうかもわかりません。
でも、悲しみや怒りの奥に、何をしても無意味というような虚無感みたいなものを時々感じました。
何をやっても無駄だということ?
なんとなくそう思っていましたが、今書くことで整理できました。
『虚無感』は、私が向かい合わなければならない出発点(魂の課題)だったのだと思います。
虚無感みたいなものを、私の出発点だと仮定して考えてみます。
どんなに虚無感を持った人でも、虚無感に満足したい人はいないと思います。
だから、意識的にせよ無意識的にせよ、選択肢は2つしかないのだと思います。
要は
克服するか?
諦めるか?
①克服=虚無感を克服して、温かい気持ちになることを目指す。
②諦め=無理だと思い、現状に甘んじる。
私の出発点が虚無感ならば、①が私の人生の一番の目的で、生まれた時にはもちろん、①を選択したのだと思います。
私は小さい頃から、悲劇的な物語に心を揺さぶられることが、多かったように思います。
悲劇というのは、虚しさでもあり、社会の不条理でもあり、それに対比して人の心の美しい部分に焦点をあてたものでもあります。
ハッピーエンドよりも悲劇に、楽しい音楽よりも悲しい音楽に、より一層心を揺すぶられるのは、魂の出発点が、『虚しい』や『悲しい』だからだと思います。
でも克服されるまでは出発点のままなので、何かと虚無感を感じるような体験ばかりします。
それが、思念が現実を作るということなのだと思います。
あるいは、時間が脳の作り出した錯覚ならば、パラレルワールドから、虚無感をテーマに選択し続けます。
(バシャールの本に、パラレルワールドについて、かなり詳しく出ていました。)
私の場合の虚無感を感じるような体験
子供の頃、自分の考えを大人が認めてくれなかった。
→言っても無駄、虚しい。
学校で、決まりだからと、従わされた。
→長いものには巻かれるしかない。つまらない。
自分は多勢に無勢の少数派。
→迫害されるかもしれない。人は敵。
負けて悔しい。
→悔しい現実が作られた。
努力が裏目に出ることも多々あります。
それで②になった。
現状維持と言えば聞こえはいいのですが、自分の人生を成り行きまかせにしたと言うことなので、だんだん自分を見失っていきます。
諦めた自分が許せない、そんな自分を認められない。
自己嫌悪が増大していき、自分を出したり、発言したりすることに罪悪感のようなものを持つようになります。
そもそも、大元に諦めがあるので、そこから発生する気分は、良い波動な訳がありません。
虚無感があるから、虚無感に見合った波動になるというか・・・。
不本意な自分を受け入れることなんてできないから、唯一の解決策は正当化して自分をあざむくこと。
他人にはわかるようです(笑)。
そうして、『自分』が希薄になって、『集合的無意識』に操られるようになるのだと思います。
<PS>
日頃思いついたことを書き留めて、ある程度まとまったら記事にしていますが、こうして書いているうちにも、頭の中がいろいろ整理されてきます。
こう言っては身も蓋もないのですが、論旨に沿って、微妙に都合よく言葉を使っていることも感じます(笑)。
例えば、『自分の考えを大人が認めてくれなかった』の大部分は、単に従うのが嫌だから、屁理屈を並べただけだったりします。
でも、そうして反発することによって、多くの人が信じていることにも疑問を持つきっかけになったのも事実です。
すべてひっくるめて、現時点での自分の思い込み(=事実も妄想もひっくるめたこのパラレルワールド)の『物語』ということでしょうか。