(「マリー・ラテイストの作品」より)
(第5巻「宗教について」第1章)
救い主イエスは、よく私に宗教について話してくださいました
「宗教とは何か」「真の宗教とは何か」について教えてくださったのです
イエスは私に宗教の必要性について示され、次に宗教の完全な要約を与えてくださり、最後にキリスト教徒にとって、キリスト教はただ自分たちだけの宗教であるだけではいかに不十分であるかを教えてくださったのです
また、宗教に関するさまざまなことも話してくださいました
私はイエスが話してくださった順番に、また私が記憶している限りのことをできるだけ話すようにしたいと思います
ある日、救い主イエスは私にこう言われました
「娘よ
宗教には、被造物(人間)が創造主(神)に対して果たさなければならなおすべての義務が集められいます
宗教には2つの考え方があります
宗教それ自体は、神によって定められ、決定され、意図されたものです
それは、その宗教の中で定められた義務を果たすことによって、この宗教を実践する人の中にあります
キリスト教においては、それを2つの意味で考えることができます
1つは宗教的な義務を果たす行為として
そしてもう1つは宗教的な義務を果たすために神がその恵みのよって人の中に置かれる能力、傾向、また超自然的な習慣としてです
もし私たちが宗教を、神によって定められ、決定され、意図されたものとして考えるなら、私たちはなぜ神がそのように定められ、決定され、意図されたのかを調べなければなりません
ここに私たちの宗教が真の宗教、つまり神ご自身から与えられた宗教であることを認識することができるためのしるしがあります
それは唯一のものであり、聖なるものであり、使徒的なものであり、普遍的なものだということです
そして、世界のありとあらゆる宗教の中で、ただカトリックだけがそのすべてを含んでいるのです
この宗教はわたしが地上に来た時に始まったのではなく、最初の楽園での出来事の、正にその始まりの時から始まったのです
初めに神が人間を創られ、楽園に置かれ、そして人間が神を自分の創造主、すべての物の創り主であることを認識していることはあなたも知っていることでしょう
人間は神を知ることによって、被造物が創造主に対して負うべき義務も知るようになりました
また善悪の知識の実を大切にし、それに触れてはならないという神から与えられた知識も持っていました
神を知り、神を礼拝し、神に従うこと
それが地上の人間の宗教であり、最初の人間からあなた方に至るまで、それは常に同じです
今日、カトリックの宗教において、神を知り、神を礼拝し、神に従わずして、いったい何をするのでしょうか
あなたはアダムのように神を知り、アダムのように神を礼拝しています
あなたが神だけに捧げなければならない従順は、族長たちがそうであったように、またわたしが自分のために選んだ人々がそうであったように、わたしが恐れの律法を取り除いて愛の律法に置き換えるために来た時に変化しました
しかし変化したのは従順それ自体ではなく、神があなたに要求されている行ないとの関係における従順の方法なのです
神ご自身がアダムに与えられた規定を変えられ、族長たちに与えられた規定を変えられ、モーセに与えられた規定を変えることを望まれたのです
そうです、それを変えられたのは神でした
そして人間はそれに従わなければならず、ですkら宗教はこのように神への従順の形が変化したにも関わらず、依然として同じなのです
しかし、人祖アダムから、神に忠実な僕であったアベルから、そして最近の殉教者に至るまで、迫害は決して宗教を破壊することはできず、むしろ宗教に力と活力を与えてきました
私の娘よ、それがどうしてかわかりますか?
それは神ご自身が宗教を制定し、神がお選びになった方法でそれを保ち、広め、それに対してこの世と地獄の権力は決して対抗することができないからです
人間は神の知識を失い、その欲望の衝動のままに、自分たちの手でさまざまな神々(偶像)を自分たちのために作りましたが、それでも宗教は失われることはありませんでした
そうです、忠実な人がひとりでもいるなら、その人だけで(宗教は)永続できたのです
しかし(カトリックの宗教)には、たったひとりの人間だけではなく、そう宗教を守る偉大な家族、膨大な民がいました
神はこの家族、この民の最初の者たちに、他の民族と区別するためのしるし、割礼をお与えになりました
そしてこの民が成長し、増加したとき、神は彼らの宗教を守るための手段として律法をお与えになったのです
この民族の宗教とカトリックの宗教の間に違いはありません
ただユダヤ教の宗教は、地上の楽園でアダムに約束され、太祖たちが待ち望み、預言者たちが告げた救い主によって確立されるはずのキリスト教の象徴の姿であったのです
救い主が処女から生まれること、救い主生のまれる場所、救い主の無名の生活、公の生活、その死と復活など、わたしの来訪のついてがすべて(ユダヤ教で)預言されていたのです
わたしは生涯、奇跡によって自分が神であることを示し、すべての預言者を合わせたよりも多くの優れた働きによって、神の使命を果たしました
わたしは12人の使徒を選び、彼らにわたしの教義を教え、わたしの律法をおしえ、わたしが地上で確立しなければならない宗教を彼らに示し、彼らを全世界に送り、約束された救い主、すなわち新で復活した待望の贖い主、そして全世界で捧げられるべき新しい犠牲とわたし自身がカルワリオで最初に捧げた犠牲についての福音を宣べ伝えさせたのです
そして無知で無学で貧しい罪人であった彼らは全世界に散らばって、わたしの与えた使命を果たし、わたし以上の奇跡を行ない、死者をよみがえらせ、口のきけない者に賛美を与え、目の見えない人に視力を与え、麻痺した人を回復させ、偶像崇拝者や悪魔の死者を混乱させ、その(カトリックの)教義の真実さを示すために命を捧げたのです
使徒たちが世界に広めた宗教は、その当初は非常に完璧なものであり実践が難しく、永遠に理解することのできないその神秘性によって非常に高尚なものとなっていましたが、それでもどこにおいても受け入れられ、考えられないような速さで世界中に広まったのでした
わたしが使徒たちに与えたこの宗教は、真の宗教です
なぜならこの宗教だけが、わたしが先ほど述べたようなしるしを含んでいるからです
「唯一のものです」
『信仰』『教義』『時間』は1つです
唯一の神、唯一の贖い主、唯一の洗礼は信じる信仰において1つです
また、神と隣人への愛という唯一の掟を持つ、その道徳性において1つです
さらに何世紀にも渡って生き残ってきた唯一のものであり、常に強く、活力に満ち、終りの時の完成まで生き残り続けるたった1つのものです
「聖なるものです」
人間を神に結び付け、地上のものから離脱させるのは教会です
悪を避け、徳を実行するように教えるのも教会です
教会は徳を守るための堅固な盾であり、罪と悪に対する強力な武器である秘跡を有しているのも教会なのです
「使徒的です」
それは使徒的なものです
宗教を世に伝えたのはわたしの使徒たちであり、それを広め、保つという使命を、わたしは彼らの後継者に託しました
そしてそれはすべての時代から遡って、使徒たちにたどり着くことができ、彼らの手に、父から遣わされたわたしが預けたことがわかるでしょう
「普遍的です」
世界のどの国にも、キリスト教徒ーつまり、同じ信仰、同じ掟、同じ秘跡を持つ人たちがいるのです
それは神聖なものです
暴君による迫害、他宗教からの迫害、人間の欲望、悪魔の絶え間ない企て、そのすべてに立ち向かうことができるからこそ、神聖なのです
カトリックのような英雄を排出した宗教が他にあるでしょうか?
他のどのような宗教が、臆病な女性や最も弱い子どもたちでさえこれほどまでに変えることができたでしょうか?
彼らのように優れた勇気以上の勇気を、どこに見出すことができるでしょうか?
この宗教を実践した人たちは死を恐れず、更に進んでその前に出、両手を広げてそれを受け入れ、最も恐ろしい拷問の最中において神を祝福し、その口からは決して不平を漏れなかったのです
カトリックと比較できるような宗教が他にあるでしょうか?
他のどのような宗教が、真の宗教の持つすべてのしるしを持っているでしょうか?
カトリックのように、人と神を結びつける宗教があるでしょうか
人の手によって作られた神々の宗教に、下劣な動物以外の神を持たない宗教に、あるいは欲望だけを優先する宗教にそれをすることができるのでしょうか?
カトリックの真理を認めないということは、なんと愚かなことでしょうか!
他の宗教の偽りを見抜けないとは、なんと愚かなことでしょうか!
ですから、わたしの娘よ
真の宗教を持たない人は、わたしが話した唯一性、聖性、使徒性、普遍性のしるしのある宗教を持っていないのです」
救い主イエスはさらに私にこう言われました
「もしあなたが、宗教を神に対する義務を果たすための行為として考えるなら、この行為はあなたにとって良いものにも悪いものにもなるでしょう
もしそれが天におられる真の神に対する義務の遂行であるなら善となり、他の神々に対して行なうなら悪となるでしょう
ですから、異教徒の行なうすべての宗教行為は悪でした
神との関係においては、神の定められた方法で行わないなら、それは悪となります
ですから今日のユダヤ教の行ないは悪なのです
なぜなら、それらはわたしが確立した宗教において禁じられていることだからです」