
年があらたまって正月も十日。近畿から西国では九日の宵戎から十日の本戎、十一日の残り福まで、商売繁盛・家内安全の予祝を祝う。
やはり戎さんは漁師の信仰が篤いわけで、神前には立派な鯛が神饌として供えられる。まぁそれは俺のような門外漢でも分かるのだけれど…。
とてつもない鮪が上がるのだ。
古来神饌と言うものは清浄を旨とするのだが、青魚の類を上げるのは天下の奇観である。

そもそも、鮪は昔は「しび」と呼ばれており、鎌倉、室町・桃山から江戸初期くらいまでは毛嫌いされてあまり食う者が無かった。何故かと言うと、まず武家が嫌った。呼称の「しび」が死日と同音だからだと言われている。出陣して敵と雌雄を決する侍は常に験を担ぐ。死日などと縁起の悪い名の魚ではなく、鯛や鰹を珍重した。何しろ開き干しの魚を食うのにさえ、切腹を連想させる腹開きを嫌うくらいであった。
それに倣ってかどうか、庶民も喜んでは食わなかった。赤身が獣の肉のように見えるからだそうだ。江戸中期以降、野田や銚子の醤油の品質が向上、香り高い濃い口醤油が庶民の手でも買えるようになってようやく、赤身を醤油漬け…通称ヅケにして食うようになった。それに鰹の外道で揚がる魚でめっぽう安かった。売る方もさばく手間さえ面倒だと言うので鉈でぶった切って売ったのだとか。それでも、今は高価な大トロなどは脂が深くて醤油を弾いてしまってヅケには向かない。棄てるか畑の肥料にするか、上の写真の如くに甘辛の割り下をこしらえて葱と煮て食うか。いずれにしても、この葱鮪鍋もヅケにしても、下手な食い物であったわけだ。
此なんヅケ寿司にて候。
今でも伊豆諸島では江戸期の寿司の名残を伝えている。今の寿司よりよほどデカく握る。だがその大きさも江戸時代のままなのだ。
寿司と言えば、今でこそ鮪が握り寿司の代表のようだが、当時は違った。江戸前握りの代表格は何と言っても車海老の蒸し海老だった。他に小鰭や玉子焼き、煮穴子、貝類など、寿司屋のいわゆる仕事を施したタネが主流で、刺身を握るのは冷蔵庫の普及する明治期を待つか、或いは遊山客目当てに河岸の最寄に屋台で売る如く、鮮度の良いまま売り切れる場合に限った。しゃり玉は今の倍以上デカいので、一カン売りで酒は出さない。客は立ち食いでとっとと食って小腹を満たす。酒なんぞ呑んで居座れた日には陽気によってはタネが傷む。
ところで、この握り寿司の考案者の逸話が伝わっている。華屋與兵衛と言う者だそうだ。それまで江戸では上方寿司が主流だったが、箱抜きなんぞやっている暇に手で握った方が手っ取り早いと思ったかどうか。最初は寿司の振り売りで小金を貯めて、本所だったか何処だったかに與兵衛寿司と言う小店を出して売った。その内模倣店が出来てきてこれはいかんと言うので、客を座敷に上げて豪華な会席風の寿司を出した。ところがその時分、お上は天保の改革を進めており質素倹約令が出されたのだ。哀れ我らが與兵衛は岡っ引きに商い仲間と共にしょっぴかれ、御白州の筵の上で御奉行様に大目玉を喰らい、お仕置きに牢屋にぶち込まれてしまった。その後の與兵衛の消息は定かでない。
…はてさて。我が住む田舎町にも和食チェーンの華屋与兵衛があるが、ここでは手打ちうどんと寿司の他にも今世に合わせていろいろな料理を出している。どうやら、彼の與兵衛居士とは直接関係は無いようだ。
