1960年代の大田区には、北(旧大森区中心)に「城南クラブ」、南(旧蒲田区中心)に「蒲田クラブ」の大きな地域クラブがあり、隣の品川区には「大井町クラブ」などがあった。
アマチュア無線への登竜門は、こうした地域クラブに入ってOM諸氏から教えていただくか、雑誌や参考書を片手に独学という道があった。当局は、独学組だったが、開局後にQSOしたOMさんから誘われて、地域クラブに参加した。
城南クラブと蒲田クラブには二文字コールの錚々たるOMさんが仕切っていて、初心者には敷居が高かった。たまたま城南、蒲田の中間域に、若い局が中心の会費の安い小規模な「ファイトマン・クラブ」があり、高校の同級生と一緒に参加することにした。
ファイトマン・クラブ 1963年の新年会
当時の地域クラブでは、月1回程度のミーティング(今風に言えば「オフ会」)があり、わずかな茶菓子とお茶が出て、実験や活動の報告、技術講習会、ジャンクの交換会などが行われた。
三頭山のフィールドミーティング中にリグの組立 1967年(昭和42年)
また年1~2回、フィールドミーティングと称して、学生が小遣いで参加できる程度の山や海辺に移動運用を行っていた。無謀にも自作機で、調整や修理でほとんどQRV出来なかったこともあった。
最高級機SP-600-JXで公開運用中のメンバー 1965年(昭和40年)
時には、公開運用も行い、重量40Kg位のハマーランドSP-600-JXを持ち込んで、自慢げに写真を撮ったが・・・。
世代、職業、能力を超越した交流が生みだした独特の文化は、お互いを刺激して、科学者や技術者への扉を開いた事もあった。
現在、QRVしている各局の話を伺っていると、同じような経験をお持ちの事だろうと推察できる。
ところで当時のローカル局の写真が出てきた。自作機がシャックの主流の時代で、A1、A3の時代に送信機と変調器が別々になっているのが一般的だった。
当時としては、高級なメーカー製(おそらくキット)が並ぶJA1HNJ局。開局当時の昭和38年(1963年)頃。
三田無線のST-1A、大栄電気?のVT-357、トリオの9R-59とプリコンSM-5。
三田無線の50/144Mc用送信機も珍しい。
一方、これはオール自作のJA1ICW局。昭和36年(1961年)開局当時のシャック。
高一中二の受信機とグリッドディップメーター、送信機は807シングル、変調器も807シングル。
最上段の棚に、トリオ(春日無線=現在のJVCケンウッド)のコイルパックの箱が写っている。
トップDXerとして名を馳せたJA1MOH局のシャック。トリオ9R-42Jと自作の高一中二受信機にプリセレクタ。
この送信機で、当局は日本で知り合ったLU5(アルゼンチン)とコンタクトできました。
LU局は自宅(牧場)にフルサイズのロンビック・アンテナを張って呼んでくれました。
品鶴線(現在の新幹線)近くのJA1NLC局。
7MHzPhone(A3)で毎晩のようにローカル・ラグチューの相手をして頂きました。
当時の6GB8PP変調器を再生した写真です。
山好きのOMで、第1回ハムベンションの記録映画の監督をしたJA1NVG局。送信機、受信機ともに自作。
2mSSBのはしりで、1970年代は毎週ロールコールのコントロールをやっていた。
当局もアシスタントで毎週つき合わされた。
高校時代の同級生で50年以上付き合いのJA1PSB局。
送信機はTX-88A(魔改造)、受信機はアイデアルのケースに高一中二を自作。
当時誰もいない50/144MHzのA3自作機で電波を出していた。
144MHz帯も水平偏波の時代ですよ。
左は、50MHzトランジスタ式トランシーバーを自作して、高校の修学旅行で鷲羽山の山頂から運用している姿。
これぞ究極の自作シャックJA1SHA局。操作は本人しか解らない。
50MHzモノバンド開局し、一時はDXを満喫していた。
現在は7MHzSSBでアクティブにON AIR。
当局(exJA1ULF)開局当時のシャック。
トリオ(現在のJVCケンウッド)のTX-88Aと9R-59(何れもキット)といった味気ないリグだった。
QRHの激しいVFOと6mクリコンは自作品。