たまの休みの日、子供を連れて近くの川沿いの土手で遅くなるまで虫取りに興じる。
「もうそろそろごはんかな」
夕暮れの土手を、ぼんやりと子どもの手を引きながら歩く帰り道。
ふと、ある意味での自分の旅は終わった気がしてならなかったのであった。
まあ、それだけの話なのであるが。
「木枯し紋次郎」で紋次郎が旅をする理由の一つに、主題歌ではないが、「どこかで誰かが待っててくれてるんじゃないか」という紋次郎の中にある淡い想いなのではないか、と密かに共感を持って見ていた。
「木枯し紋次郎」は1970年代に放送されていた時代劇で、いまだにたびたびBSなどで再放送している。
上州新田郡三日月村の貧しい農家に生まれた紋次郎は生まれて、すぐに間引きされそうになる所を姉のおみつの機転により、助けられた。
「間引かれ損ない」として薄幸な子供時代を過ごした紋次郎は十歳の時に家を捨て、渡世人となる。
渡世人とは当時戸籍にも載らない、いわば世捨て人である。
などなど、そこまでのことはドラマの台詞の中で時々触れられる程度で、物語は目的のない紋次郎の放浪の旅からはじまる。
ぼろぼろの大きい妻折笠を被り、薄汚れた道中合羽を羽織り、長い楊枝を咥え日本中を目的もなく、ひたすら前に歩き続ける。
ストーリーは一話完結で、その時々の事件に巻き込まれながら、「他人にはかかわり合いにならない主義」といいながらも、己の腕一本で切り抜けて行く。
「狼殺法」と呼ばれる自己流のリアルな刀さばきでその場を切り抜けるのだが、とにかくめっぽう強い。
とにかく、物語のおもしろさ、リアルな人間の所作、中村敦夫のニヒルで虚無的な演技も含めてハマってしまい、1stシーズンはDVDも買いそろえた。
木枯し紋次郎に魅せられる理由の一つは、自分がフリーランスで生きていくことの大変さを、己の腕一本で生き抜いて行く紋次郎とだぶらせ、いわば勝手に共感を持って見ていたからである。
言葉にすると、非常に陳腐になってしまうような思い、そして決して誰にも理解してもらえない思いが、上手く映像に昇華されていているように感じたのだ。
勿論勝手な解釈だが。
もう一つの魅せられる理由は、先に書いた「紋次郎の放浪する理由」。
「どこかで誰かが待っててくれてるんじゃないか」という淡い想いが目的もない彼をつき動かさずにはいられないのではないかな、と。
紋次郎の場合、その誰かとは、間引きされそうになったところを助けてくれた姉の事なのだが、姉どころかどこにも自分を待っている人間などいない事も、本当はよく理解している切なさもある。
それでも何かに追われるようにもくもくと旅を続けて行く紋次郎の孤独が胸を打つ。
また、自分語りになります。(笑)
自分は旅が好きである。
数は多くはないが、独り者の時もあちこちに行った。
「今まで自分が見た事のない風景に出会いたい」という気持ちが、理由の一つにあるが、もう一つは「誰か」を捜していたのではないかなという事がある。
その「誰か」は明確ではない。
そしてそんな「誰か」なんてどこにも待っていない事も、もちろん知っている。
しかし、かつて旅に行く理由には、そんな思いもあったような気がしている。
(結婚してからの「旅」はまた違う意味を持ったイベントになったが)
休みの日に時間があれば、さほどの目的もなく町をぶらぶらしたり、バイクであちらこちらをうろついたり、一人ドライブしたりする理由にも、そんな事があったと思う。
いや、旅=人生と捉えるならば、ずっと、「いつも誰か、自分を待っている存在との出会い」を求め続けていた毎日だったと言えるかもしれない。
奇しくも、木枯し紋次郎の1stシーズンのオープニング主題歌は「だれかが風の中で」待っていてくれるんじゃないかという歌だ。
こころは昔に死んだ。
ほほえみにはあったこともない、昨日なんか知らない。
今日も旅を一人。
けれどもどこかでおまえは待っていてくれる。
きっとおまえは 風の中で待っている。
しかし、時を経て(笑)、自分には家族ができた。
今や紋次郎とは違い、帰るべき場所ができたのである。
もしかしたら自分がおぼろげに追い求めていたものはここにあったのかなと、ふと思えてならなかった、というだけの話なのではある。
そして、家族は守るべき存在でもある。
大黒柱としての責任もある。
もう独り者の時のように浮ついた考えではいられないのである。
生活はどこまで行っても「リアル」であって、「リアル」との戦いなのだ。
そういう意味ではまた別な意味の旅は始まっているのである。
しかし、その旅が「ひとり」ではないということがこんなに心を支えてくれるのかという事は今までは知らなかった。
家族に感謝したい。
_____________________________________________
またぞろ書き始めたブログだが、心の中のヤナギブソンが「誰が興味あんねん!」と言い出した。
いまだ何者でもない一般人の自分語りはやっぱりみっともない。
ここにひっそりと、誰に宛てるでもなく、あれこれ思いつくまま書き連ねてきたが、大事な事は首からぶら下げた大福帳にでも書いておけと言うのは豪快さんの教えだったか。
そもそも文章を書く事の練習も兼ねていたこのブログ、(上手くもなってないし!)そろそろ潮時が近づいてきたようだ。
ブログを書かずとも、人生は続いて行く。
この先に何が待ち受けているかはわからない人生行路だが、素晴らしい未来があると信じたい。
まわり道でも 旅の終わりに
君にもう一度 会えたならいいね