心の病と社会性には密接な関係がある。
心の病に病を持つ人の多くが社会性に問題を抱えている。
親子の間で結ばれる関係が「愛着」であり、その愛着を他人に応用する事で社会性が生まれる。
愛着とは「信頼」であり、信頼なくして社会性は生まれない。
信頼とは相手に身を任せる事であり、命を任せる事でもある。
自分の身を危険にさらし、相手がそれに応える事で信頼は生まれる。
それは犬や猫でも同じ。
犬は飼い主に服従の証として腹を見せる。
腹を見せるという事は、自分の一番弱い部分を見せるという事。
それは「貴方を信じます」との意思表示。
咬まれたら命を失う危険のある部分を相手に見せる事で信頼を示している。
そして、人間も犬に腹を向けられると、愛しさを覚えて可愛がる。
猫も警戒している所では、決して腹を見せる事はしない。
愛着や信頼の原点は「無防備」である。
その無防備の原点は、生まれたての赤ちゃんと母親の関係にある。
全く無防備な赤ちゃんに母親は愛しさを感じ、無防備に対して無償の愛で応える。
そうした関係の中から信頼が生まれ、自分を守ってくれる者と自分が守る者の関係が愛着になる。
その関係は、飼い主と犬の関係でも同じである。
犬が腹を向けると言う事は無防備であり、そこに愛しさを感じて犬に愛着を覚える。
逆に、身構えている犬や猫を見た時、人間も警戒し、身構えている犬や猫に愛しさを感じない。
社会に於いて「身構える」とは、自己保身であり自己弁護であり自己防衛である。
そして自己保身の為に身構えている人には信頼は与えられない。
幼少時の親子関係で、無防備な子供に虐待を加えれば、子供は無防備になる事に恐怖を感じて身構えてしまう。
その為、社会でも常に身構えてしまい、信頼を得られず孤独感を強めてしまう。
無防備とは命がけの行為であり、愛着が身に付いていない人にとって信頼とは、死の恐怖に匹敵する。
「背中を預ける」と言う言葉がある。
人間は自分一人だけでは身を守る事が出来ない。
だからこそ助け合って生きている。
人を信じ、背中を預け合う関係。
それが、守り守られる関係であり、母子関係の「愛着」の発展系である。
人を信じられなければ背中を預ける事は出来ず、常に背後の敵に気を気にしなけれればならない。
そこに安心は無く、常に背後の不安を抱え続ける事になる。
それが孤独の恐怖であり、人間は本能的に孤独を恐れる。
しかし、孤独の恐怖は本能で感じる恐怖である為、意識としては現れず、漠然とした不安として感じる。
そして、社会に於いて信頼を得るには、恐怖を克服している事を示さなければ信頼は得られない。
いざと言う時、逃げ出すような相手には背中を預ける事は出来ない。
そして恐怖の克服は、言葉ではなく行動によって示さなければ信頼は得られない。
行動によって積み重ねられた信頼が「実績」である。
自分の背中を守って貰うには、誰かの背中を守る事であり、誰かの背中を守り続ける事が実績になる。
誰かの背中を守っていれば、必然的に守っている相手に自分の背中は守られる。
誰かの背中を守らず、自分の背中を守ってくれと言っても誰も守ってはくれない。
集団に溶け込むと言う事は、実績を積み上げる事であり、実績を積んでいない者は、実績を積むまで信頼を得る事は出来ない。
そして実績を上げられない者は孤立感を深め,、それが焦りとなって現れる。
しかし、集団の中で最も信頼を得る実績は逃げない事であり、どれほど優秀な成績を収めていても肝心な時に逃げ出す者は信頼を得る事は出来ない。
心の病を発症する人は、こうした社会性を持たない為に病を発症する。
他人を信じていないから、背中を預けられずに孤軍奮闘して力尽きて病気を発症したり、社会に溶け込めない孤独感から病気を発症したり、恐怖の克服が出来ずに逃げてばかりで信頼を得られず孤立化して病気を発症したり。
全ての要因は、愛着や信頼の概念が身についている?かである。
愛着とは、無防備に対して無償の愛を提供する関係から得られる感情であり、全てはそこに帰結する。
社会性を身に付けていない者が、社会性を身に付ける方法も愛着に有る。
無償の愛とは、見返りを求めずに注ぐ愛情であり、それは自己犠牲でもあり自己満足の世界でもある。
自己保身している者を人は助けようとはせず、自己犠牲する者を人は助けようとする。
社会性の極意は「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」である。