15日の日没から、ユダヤ暦では新年を迎える。ロシュ・ハシャナ、という。
(でも、私の耳にはいつもロシャシャナ、と聞こえるので、私はいつもロシャシャナ、と言っている)
5784年のスタートである。
過去のロシャシャナの記事はこちら👇
昨年のロシャシャナ👇
から、もう1年が経つのか。
去年のクアちゃんの作品。
時の速さを感じずにはいられない。二人とも、写真を見比べてみると、ずいぶんとこの一年で成長した。
私たちは、毎年、ロングアイランドにある主人の実家でロシャシャナを迎える。(コロナ時以外)
ユダヤ教は陰暦なので、日没から新しい日が始まる。
だから、毎年夕方3時頃には到着するようにして、そこから子供たちは大好きな地下室の遊び場へ直行する。そこからロシャシャナが始まる日没まで、彼らの顔を見ることはない(笑)。
いつも主人の実家を考えたときに一番に思い浮かぶのは、扉を開けたときの、料理のいい匂いだ。
タオルを肩にかけて、大きな笑顔で義母が迎えてくれる。
もう何日もロシャシャナに向けて料理をしてきたのだろう。たくさんのアルミティンがテーブルに並んでいる。りんごのケーキ、リンゴを低オーブンで焼いたスナック、ハニーケーキ、たくさんのハラパン、何種類ものスープ。。。
主人は、私たちが泊まる3階の部屋にこもって、ロシャシャナが始まるギリギリまで仕事をする。
今年はロシャシャナがちょうど金曜日の夜~日曜日の夜にあたるので、仕事で猛烈に忙しい主人は、たいそう喜んでいた。平日の丸二日仕事ができない、というのは忙しいときには気が休まらない。
そして私は、義母を手伝って料理をする。
もうこんなにも作ったのだからいらないのではないか? と思うのだが、まぁそれはユダヤ人のママ。ロシャシャナの始まるギリギリまで、あれも、これもと料理をするのだ。
その間に、親戚がかわるがわる訪れては、「シャナトヴァ!」(あけましておめでとう)と言い合い、帰っていく。
今年のロシャシャナは、主人の弟がいる。夏に事故に遭い、今は実家からリハビリをしているからだ。
彼の家族は、奥さんの実家もニューヨークにあるので、大抵の祝日は奥さんの実家へ行ってしまう。だから、彼らがロシャシャナにこの家に来ることはほとんどない。そのことを、義母はいつもよく思っていなかった。
義母はいつも「ロシャシャナは二日。ディナーが2回にランチが2回。4回食事の機会があるのよ。その1度くらい、食べに来てもいいじゃない」
と。
話は逸れるが、主人の弟たちは、私たちと違って、誰も戒律を守っていない。ユダヤ教の食の戒律であるコーシャーも、安息日も守っていないし、シナゴーグへも行かない。だから、ロシャシャナ中に車を運転して、実家に来ることもできる。でも、それをしない。
もう一方の弟一家も、大抵はランチを一回か、ディナーを一回食べに来て、泊まることなく帰っていく。
妹一家は、私達と同じで戒律を守る現代正統派なのだが、夫婦揃って医者なので、勤務があってロシャシャナ中もほとんどいない。(人の命を助ける行為は、戒律を守ることよりも上に来る)だから、この家族も、大抵ランチ1回、ディナー1回に来る感じで、角を曲がったところにある妹の旦那さんの実家に滞在する。
そうなると、ロシャシャナ中にずっと実家に滞在し、4回の食事を共にするのは、私たち家族だけだ。義母は、本当にそれを嬉しく思っている。
そして、何よりも誰よりも、「家族みんなで集まりたい」という気持ちの強い義母は、「みんながずっと一緒にいるロシャシャナ」というのを夢見ているのだ。
いつか、実現する日は来るだろうか? と、ふと思ったが、きっと来ないだろう。それに私は心を痛める。
とまれ。
ロシャシャナの料理を終えて、シャワーを浴び、新調した新しいワンピースを着て、キャンドルを灯す。
キャンドルを灯すと、いよいよロシャシャナのスタートだ。
キャンドルを灯したら、以下のお祈りを唱える。
今年は安息日と初日が被るため、特別なお祈りだ。
1) בָּרוּךְ אַתָּה אֲדֹנָי אֱלֹהֵינוּ מֶלֶךְ הָעוֹלָם אֲשֶׁר קִדְּשָׁנוּ בְּמִצְוֹתָיו וְצִוָּנוּ לְהַדְלִיק נֵר שֶל שַׁבָּת וְשֶׁל יוֹם הַזִּכָּרוֹן
Bah-rookh ah-tah ah-doh-noi eh-loh-hay-noo meh-lekh hah-oh-lahm, ah-shehr ki-deh-shah-noo beh-mitz-voh-tahv veh-tzee-vah-noo leh-hahd-lik nayr shehl shabbat veh-shel yohm hah-zee-kah-rohn.
Blessed are You, L-rd our G-d, King of the universe, who has sanctified us with His commandments and has commanded us to light the candle of the Shabbat and of the Day of Remembrance.
2) בָּרוּךְ אַתָּה אֲדֹנָי אֱלֹהֵינוּ מֶלֶךְ הָעוֹלָם שֶׁהֶחֱיָנוּ וְקִיְּמָנוּ וְהִגִּיעָנוּ לִזְּמַן הַזֶּה
Bah-rookh ah-tah ah-doh-noi eh-loh-hay-noo meh-lekh hah-oh-lahm sheh-heh-kheh-yah-noo veh-kee-mah-noo ve-hig-ee-yah-noo liz-mahn hah-zeh.
Blessed are You, Lord our G-d, King of the universe, who has granted us life, sustained us, and enabled us to reach this occasion.
今年のロシャシャナ初日は、ロシャシャナの醍醐味であるショーファー(山羊の角)の音を聞くことができない。なぜなら、初日が安息日と被っているからで、安息日には楽器を使うことが禁止されているからだ。
👇ショファーの音
ロシャシャナにショーファーの音を聞く意味、というのは、
神聖な日であるロシュハシャナの訪れを告げる警鐘
神への悔い改めと祈りの呼びかけ
神が世界を創造した瞬間を思い出す
将来の出来事を予告する象徴的な要素
と、いろいろとあるらしいが、一番の理由は、「神が、創造した制作物(私たち)を見て改めて喜びを感じること」と、とあるラビは言う。神が私たちを喜び、更なる創造を生み、私たちとの関係を続けてくれること。
そのために、私たちは悔い改め、自分に対して精進するのだ、と。
この話がとても興味深かったので、紹介したいと思う。
「悔い改める」、というのを、ヘブライ語では「トーバ」という。これをスペルアウトすると「タシュー・ヘイ」となる。「タシュー」は「帰る」という意味で、ヘイは「ハシェム」、すなわち神を表す。つまり、「神に帰る」という意味となる。
「悔い改める」、と聞くと、「神様、私はこんなに悪いことをしました。大変申し訳ございませんでした。三つ指をついてお詫びいたしますので、どうぞお許しください!」
と、自分の愚かさを批判し、自分をけちょんけちょんにぶった切る、いうのを想像する。
が、そうではないのだそう。
では、本来の悔い改めというのは、どんなものだろうか?
それは、神の存在を考えるとわかる。
神とは、慈悲と思いやりの神である。
だから、「悔い改める=神に帰る」というのは、自分を批判し、厳しい判断を下し、「自分はダメだ」と否定することではない。神のように、自分自身に対する思いやりと慈悲の声に戻ることである、と。自分自身を完全に愛し、受け入れ、許すことができる自分に戻ることである、と。なぜなら、それこそが、神がしてくれることだからだ。
そして、一度それを自分自身に対して行った後に、始めて、他の人々に対しても同じように対応することができるのだ、と。
ふむ。なるほど〜。なんとも興味深い。
でも。
「自分が自分に対して思いやりと慈悲を持つ」とは、どんなことなのか?
考えてみた。
先述の事例を取ると、
「神様、私はこんなに悪いことをしました。大変申し訳ございませんでした。三つ指をついてお詫びいたしますので、どうぞお許しください!」
ではないとすると。
「神様、私はこんなに悪いことをしました。それにはこんな理由がありました。そんな私を、私は許します。そんな自分を受け入れます。そんな自分も認めます。でも、次は、こんな風に対処したいと思います。神に近づけるように、精進いたします。」
という、志の高い動機=自己の成長、なのだ。
人を成長させるのは、懺悔ではない。もっと良くなりたい、というモチベーションだ。
そんなモチベーションがあれば、神様は私達を見て、喜んでくれるのではないだろうか?
ショーファの音は、志の音なのだ。
そんなふうに思った。
5784年が、自己成長の年であることを祈り、ロシャシャナを迎えたいと思う。
世界中でロシャシャナを迎える皆様にとって、5784年が甘く素晴らしい1年であり、慈悲と思いやりに溢れた、自己成長の1年でありますように❤