最後の投稿日を見たら、6月12日だった。あっという間に、3か月ほどが経とうとしている。

 

子供の頃は、一日がとても長く、永遠に感じられた。母に、「大人になるとね、一日と言わず、一年があっという間に過ぎちゃうのよ」と言われていたが、40代になると、その言葉が本当に身に染みる。

 

それにしても、怒涛の2か月だった。

 

主人には、ものすごい優秀な不動産弁護士の弟がいる。4番目の弟だ。

 

↓ 過去の記事にも書いた、弁護士のパワーカップル。これが、主人の弟夫婦だ。

 

 

彼は、務めている弁護士事務所に最年少で採用され、ニューヨーク州にとっても将来超有望な、期待の星である。マンハッタンをすぐ出た高級住宅地に素敵な家を持ち、9歳と7歳のハンサムな息子と美人な娘がいる。奥さんも弁護士だし、理想を絵にかいたような家族である。

 

6月のある日。

 

そんな彼は、ニューヨークの州都アルバニーの近くで開催されたニューヨークの弁護士協会の集いに呼ばれ、参加することにした。彼は会場となった高級ホテルに一人で向かい、午後3時ごろにチェックインした。そのホテルがある場所は湖のすぐそばの、閑静な避暑地。人通りも、車の通りも少ない、由緒ある素敵なエリア、といった感じ。開会式があるまで少し時間があるので、彼はイヤーバズを付けて、ホテル周りへ散策に出た。ホテルの向かい側には、道を隔ててテニスコートがある。彼はそこへ向かった。

 

テニスコートからホテルへ戻ろうと、彼は道路へ一歩を踏み出した。

 

そして、思いもせず走ってきていた車に、思い切り跳ね飛ばされた。

 

木の陰に隠れていて、車からは完全に死角だったという。

 

本人も、まさか車が来るとは思っていなかったのだろうし、イヤーバズをつけていたから、向かってくる車の音も聞こえなかったのだろう。

 

後ろ側に飛んで、地面に頭を強く打ち、意識不明の重体。午後5時ごろの出来事だった。

 

その夜。

 

私は主人が出張中だったので、早めに寝ようかと22時頃にベッドに入り、携帯で主人とやり取りをしていた。すると、主人の3番目の弟の奥さん=義理の妹から電話がかかってきた。

 

彼女とは、普段テキストでやり取りはするものの、あまり電話で話したりはしない。だから、最初は間違いかな? と思いながら電話を取った。

 

私:「ハーイ。元気? 何かあった?」

 

義妹:「ヘイ。元気? あのさ。。。□□(主人)は一緒にいる?」

 

私:「ううん。いないよ。どうして? 」

 

義妹:「連絡を取ろうと思ったんだけどつながらないから」

 

私:「私、ちょうど今、メッセージのやり取りしていたよ。いる場所は電波が悪くて電話がつながりにくいって言ってた。だから、アプリ系かテキストのほうがつながるかもしれないよ」

 

義妹:「そうなんだ。。。なんか言ってた? 元気だった?」

 

私:「うん。普通に元気だったよ。たくさん人がいて、久しぶりに会う人達が多くて嬉しい、楽しいって言ってたけど。なんで?」

 

義妹:「そっか。ってことは、やっぱりまだ聞いてないのね。あのさ、〇〇がアルバニー付近で交通事故に遭ったって。脳の外傷がひどいんだって。私も詳しくはわからないの。たった今、主人から電話があって、お父さんと一緒にアルバニーの救急病院へ向かうから、とにかくみんなに連絡して!って言われて。。。普段は冷静な彼がものすごく取り乱していたから、かなりひどいのかもしれない。わからない。」

 

絶句した。言葉が出ないとは、こういうことなのか。

 

そして、背筋がぞぞぞっとした。主人は出張で、アルバニーのすぐ近くにいるのだ。神様の仕向けた「偶然」としか言いようがない。

 

私:「主人は今、出張でアルバニーのすぐ近くにいるのよ! 今すぐ連絡するから、切るね。また電話する」

 

そう言って、すぐに主人にWhatsappを使って電話をかけた。

 

主人:「ヘイ、ベイビー。どうしたの?」

 

私:「つながって良かった。今、妹の△△から電話があったの。あなたの弟がアルバニー付近で事故に遭ったって。脳の外傷がひどいって。。。あなたのママにすぐに電話して。そして、弟がお父さんと病院に向かっているから、どちらかにも電話して、詳しく話を聞いて!」

 

主人:「Oh no.... oh no..... oh no...!! また電話する」

 

そういって、すぐに電話は切れた。

 

彼らが住む場所から、ニューヨークの首都アルバニーまでは、車で3時間かかる。そんなところで弟が事故に遭った。その時、たまたま、私の主人はアルバニーの近くにいる。主人はすぐに病院へ向かった。

 

事故のあと、弟はアルバニーの総合病院の集中治療室へ運ばれ、夜に両側の頭蓋骨を外す大手術をした。

 

担当外科医は「かなり頭を強く打っていて、脳の腫れが尋常じゃない。できる限りのことはやったけれど。。。助かる可能性は。。。」と言葉を詰まらせたのだそうだ。

 

居合わせた家族も、医者の話を電話で聞いた私たち家族も、泣いた。

 

彼は、今夜死んでしまうのか。

 

もう、彼に会うことはないのだろうか。

 

最後に彼からテキストがあったのが一ヶ月ほど前。返さずじまいだった。それを、とても後悔した。

 

主人から午前1時ごろに電話があった。「この一晩、安定しているかどうか、それがカギだって。とにかく、祈ろう」

 

そこから一晩、私は家族と連絡を取り合いながら、眠れない一晩を過ごした。

 

どうか助かって。それだけ、一心に祈った。

 

一睡もできないまま、朝になった。

 

弟は、奇跡的に、安定した一晩を過ごして、朝を迎えた。

 

医者も、信じられない、と言った。

 

昏睡状態で2日目が過ぎた。安定している。

 

3日目が過ぎた。安定している。

 

彼は助かるかもしれない、という希望が出てきた。

 

が、昏睡状態と言うのはわからない。肺などに炎症が起きたり、血の結晶ができたりしたら、一発で死んでしまう可能性がある。

 

そこから、一喜一憂を繰り返す日々が続き、家族や親せきは、変わる変わるアルバニーの病院に出向き、昏睡状態の彼に声をかけ続けた。主人はほぼ毎日、私も一日置きにはアルバニーに車を飛ばして、彼に声をかけ、祈った。

 

彼はひたすら、眠っているようだった。昏睡状態というのは、こういうことなのか。たまに腕を動かしたり、足を動かしたりする。でも、それは反射であって、意識的なものではない。

 

彼は、頭を強く打ったが、特に人格をつかさどる場所と話す機能をつかさどる場所の損傷がひどいのだそうだ。もう話せないかもしれない。事故前の「彼」に戻ることは絶対にない、と言われた。

 

今、息をしている。それだけで、奇跡なのだと言われた。これ以上の回復があれば、どんなものでも「儲けものだ」と。

 

脳の損傷、昏睡状態などについて、インターネットで調べまくった。が、どのサイトを見ても、「脳の損傷がかなりひどい場合、どれくらい回復するかは、人によって全く違う」とだけあって、まったくわからない。

 

目を覚ますのか? 目を覚ますならいつか? 目を覚ましたら、そこからの回復は?

 

まったくわからない

 

というのが、どれほど不安なことかを身をもって体験した。

 

でも、持てるものは希望だけ。希望は捨てない。彼の回復を信じる。神様にすべてを委ねるだけ。神様は、いいことしかくださらない。

 

この間、ユダヤ人コミュニティーの温かさは感激としか言い表せない。アルバニーのラビたちがコミュニティに声をかけてくれ、安息日用の食事や毎日の食事を、会ったこともないアルバニーに住むユダヤ人たちがひっきりなしに病院や滞在先に届けてくれた。

 

また、彼の回復のためのテヒリム(詩編)グループというのをWhatsappに作ってくれ、毎日世界中で彼の回復を祈って、百人以上のユダヤ人が、このグループに参加してテヒリムを読んでくれている。(それは、8月30日の現在も続いている)

 

昏睡状態は3週間続いた。

 

そして。

 

3週間たったある日。彼はうっすらと目を開けた。

 

昏睡状態から、植物状態になったのだ。

 

植物状態は3日ほど続いた。目を開けるが、命令に従って目を動かしたり手を握ったりすることはないから、意識はない。

 

植物状態が4日目に入った日、彼は目をゆっくりあけて、目で物を追うようになった。

 

「〇〇!こっちを向いて」「手を握って」「親指をたててみて!」「私を見て」というと、声のするほうへ眼球を動かし、親指を立ててくれる。それができるようになったのだ。それを、最小意識状態、と言うのだそうだ。


7月4日は、彼の41歳の誕生日だった。最小意識状態の彼は、誕生日に、アルバニーの集中治療室から、マンハッタンの病院へ移動した。

 

最初の夜に手術を担当した外科医がやってきて、移動前に彼の手を握って泣いた。生きている彼を見て、意識が最小に回復した彼を見て、すすり泣いた。

 

「一年後、どうか歩いて私に会いに来ておくれ。手術のあと絶対に助からないと思った私を驚かせてくれたように、一年後の回復した姿を見せて、私を驚かせてくれ」

 

と言った。

 

「こんなにも家族や親せきが訪れて、ひっきりなしに声をかけたり刺激を与えられた患者は他に例がない。これこそが、彼の回復に大きく関与しているのではないだろうか?」と、様々な医療関係者に言われた。

 

頭蓋骨がないので、頭にはヘルメットを被せ、ベッドからストレッチャーに慎重に動かし、彼はプライベートジェットでアルバニーからマンハッタンまで移動した。

 

プライベートジェットは、Hatzolahというユダヤ人の救急医療組織のもので、今回の移動をアレンジしてくれた。

 

マンハッタンに移動してからも、私たち家族はかわるがわる彼を訪れ、たくさんのチャレンジを彼に仕向けた。

 

一番のアイデアは、ブギーボードだった。

 

 

彼が声を聞けることはわかっていたから、このブギーボードに選択肢を書いて、彼に質問し、彼にペンを渡して〇を付けさせるように試みたのだ。

 

二つの名前をボードに書く。そして、「君の名前はどっち?」と聞く。彼は、自分の名前に〇を付けた。

 

5つの名前をボードに書く。そして、「僕の名前はなに?」と聞く。彼は、ちゃんと主人の名前に〇を付けた。

 

彼は、読める! 理解している!!

 

事実、彼は、たくさんのことを覚えていた。そして、アルファベットを書いた。ひょろひょろの文字だが、自分の名前を書き、yes, noなども書いた。

 

1週間が経ったとき、医者が「彼はもはや最小意識状態ではない。意識が回復したと言っていい」と断言した。

 

彼は毎日、理学療法(Physical Therapy:PT)や言語聴覚両方(Speech and language Therapy:ST)をやった。

 

座れるようになり、

立てるようになり、

歩けるようになり、

階段を上り下りできるようになり、

食べられるようになり、

声が出せるようになり、

話せるようになった。

 

そして、7月の終わり、彼はマンハッタンの病院を退院した。事故からたったの2ヶ月弱。

 

今の彼は、実家からPTとSTへ通う。

 

コメディを見て笑い、ルシュキちゃんとUNOカードで遊び、義母と料理をする。

 

事故から3か月弱。そこまで回復した。

 

8月20日は、主人の従弟の結婚式があった。その前日の安息日、弟は、シナゴーグで、ビルカット・ハゴメルを唱えた。これは、癒しと完全な回復の奇跡に対する感謝の気持ちを表現する祈りで、外傷を乗り越え、命に関わる出来事を生き延びた人によって唱えられる。ビルカット・ハゴメルを唱える彼を見て、私たちは号泣した。

 

もちろん、まだ記憶が定かでないし、曖昧だったりする。話し方もおぼつかない。歩くときは杖がいるし、外に出るときは車椅子で移動する。排泄は自分でできるが、念のためにまだおむつを履くときもある。

 

運転、運動なんかはもちろん全くできないし、実家には24時間7日、毎日ナースがついている。

 

でも。彼の回復力や記憶力を垣間見ると、絶対に近い将来、彼は弁護士に復帰し、大好きなスキーをまたやるんじゃないか、という気になる。

 

だって、そうならない理由が、見つからない。

 

彼は近く、外した頭蓋骨を戻す手術をする。

 

生命力のすごさ、生きる奇跡を目の前に見つめる、壮絶な2か月だった。