1匹だけを可愛いがると、他の犬は嫉妬したり、拗ねてしまいます。
人間のような感情を持っているので親しみを感じますが、気を付けなければいけません。
人間も犬も、最も味わいたい感情は「喜び」でしょう。
一方、「怒り」や「嫉妬」はできれば抱きたくはありません。
苦しみを伴う感情だからです。
そんな苦しくなるような感情など、初めからなければ良いのにと思ってしまいます。
けれども、この世に必要のないものは存在しません。
肉体を持つことで地上の自我(以下自我)が形成され、そこから感情が生まれると考えられます。
高いところに立つと、恐怖を覚えます。
もし、恐怖を覚えなければどうでしょう?
注意を怠り、落ちてしまう人がいます。
つまり、地上を安全に生きて行くために、恐怖という感情は必要と考えられます。
嫉妬はどうでしょう?
他人にあって自分にはない、あるいは他人に与えられ自分には与えられない、そんな差を感じた時に、嫉妬心を抱くことがあります。
肉体を持つと、自己を保存しようとする欲求が生まれます。
いわゆる本能と呼ばれるものであり、幼い子供でもその欲求はあります。
一人で生きて行けない子供は、親に保護され、育ててもらわなければいけません。
愛情を受けるのは、子供にとって死活問題です。
より多くの愛情を受けようとする欲求の触媒となっているのが、嫉妬心と考えられます。
自分にない才能が他者にある時も、嫉妬をすることがあります。
才能が周囲に活かされると、他者から評価されることが多いです。
両者に利害関係があると、評価されている人を見ると、自分の立場が脅かされるようなような感覚になり、自己を保存しようとする欲求が刺激されて、嫉妬心が生まれる時があります。
他者と比べることによって生じる、苦しみを伴う感情を嫉妬と呼ぶのかもしれません。
それでは、なぜ苦しみを伴うのでしょうか?
宇宙の隅々にまで、自然法則は働いています。
自然法則の根本原理は「愛」です。
愛が自然法則の働きの中に顕現しています。
嫉妬は愛に反した、他者を排除しようとする感情です。
そのような成長を妨げる感情に捉われることのないように、自然法則の働きによって苦しみが生じると考えられます。
嫉妬による苦しみを感じたくなければ、他者と交わることのない環境に身を置けば良いのですが、そんなわけには行きません。
環境が変えられないのであれば、自分が変わるしか方法はありません。
私たちの中には、神が宿っています。
そのために、溺れている人を見ると助けたくなる衝動が生まれます。
同時に自我が働いて、意識が自分に向かいます。
自分まで溺れてしまうと考え、助けようとする衝動を抑制しています。
嫉妬が生まれるのは、自我の働きによるものであり、意識が自分に向いています。
従って、自分から意識を外すことができたのなら、嫉妬は生まれなくなるはずです。
それでは、どのようにすれば自分から意識を外せるのでしょうか?
意識を他者(周囲)に意識を向けるようにすれば良いと考えられます。
それは他者と比べることではありません。
他者のことを思ったり、考えたりすることです。
この世は、自分と違う人たち、果たすべき目的が違う人たちが、同じ平面で暮らしている特殊な場所です。
誰一人として同じ人はいません。
歩む人生も、当然のことながら違います。
ところが、その違いにばかりに目が行ってしまいます。
初めから違っているものを比べてしまうのは、明らかに間違っています。
間違ったことをすると、因果律の働きにより、苦しみが生じることになります。
私たちは物的にばらばらに存在しています。
けれども、霊的につながっています。
言葉を介さずに、想いが判る時があるのはそのためです。
世の中全体を揺るがすような出来事が起きると、連帯感や結束が生まれるのもそのためです。
全ての生命は霊的に1つです。
地上に生まれると、霊的な意識が希薄になり、つながりが感じられなくなります。
物質的な違いばかりが目に付いて、比べてしまいます。
もし、周りにいる人を、この世を共に修行をしている同胞と心から思えるような、霊的な意識を取り戻したのなら、比べることにより生じる苦しみを伴う感情から解放されるはずです。”